子どもたちの「主体」性を育てたい
学校現場ではよく「指導」という言葉を耳にします。生徒指導、生活指導、給食指導などなど…、当たり前のように使っているのではないでしょうか?
僕はこの言葉にずっと違和感があります。それは、教える側が上からモノを言っているような言葉に聴こえるからです。
学校の場合、何かのトラブルに対して「指導」する、授業が分かりやすいように「指導」する、といったように、この言葉の主語は教師です。僕はこの言葉からは、「教師の思い通りに子どもたちを動かす」というイメージがどうしても湧いてしまいます。
これは僕の理想の教師のイメージに合いません。学生時代、上からモノを言う先生が一番苦手でした。だからそんな教師にはなりたくないと思っていました。
しかし時として、「指導」がなければ学校や学級経営がスムーズに運ばないのも事実です。短い言葉でわかりやすく「指導」できると、子どもたちに迷いがなくなります。
子どもたちを正しい方向に「指導」していくのも教師の役割の一つです。特に人道を踏み外すようなことがあった時には正しい方向へ「指導」していかなければなりません。
だから、経験を積めば積むほど「指導」がうまくなります。「指導」がうまくなると「教える側の思い通りに子どもたちが動く」わけなので、学級経営が楽になったように感じます。だから教師は、さらに「指導」がもっとうまくなるように技を磨く…。
僕はここに落とし穴があることに、最近ようやく気が付きました。これは「指導」の罠であると。そして僕もこの罠にはまりかけていたと。
指示待ち人間が多い
「指導」と似た言葉に「指示」という言葉があります。学校でもよく使われれる言葉です。
「指示待ちの子が多い」
僕が初任の頃から、先輩の先生が口をそろえて言っていました。もっと子どもたちが自分の意思で、自分で考えて動けるようになってほしいという教師側の願いの裏返しです。
子どもたちに限った話ではありません。社会人になったばかりの若手が上司に言われることだってあるでしょうし、飲み会なんかで誰かがこのようなグチを言っているのを聞いたことがある人もいると思います。
「指示待ち人間」は、「指示」や「指導」が多い現場から生まれます。僕は、学校こそ「指示待ち人間」を生み出す現場となってしまっていると感じています。
「指示」や「指導」で学級がうまく回ることに味をしめた教師は、どんどんその技を磨いていきます。
裏を返せば、子どもたちはどんどん「指示」や「指導」を浴び続けるわけですから、「指示通りに動けばことが丸くおさまる」ことを学んでいきます。
そして立派な「指示待ち人間」が社会へと旅立っていく。
これではいくら自分の学級がうまくいったとしても、全く社会のためになっていません。
そもそも自分で「指導」のスキルを磨いておきながら、「指示待ち人間が多い」なんて嘆いている教師は何だかおかしいですよね。
「指導」の対義語は「主体」
個人的にですが、教育の観点からみると「指示」や「指導」の対義語は「主体」ではないかと思っています。
子どもたちからすれば「指示」は教師にやらされるもの。「主体」は自らの意思でやるもの。
最新の学習指導要領にも「主体的」という言葉が頻出しているように、今や教育界のトレンドになっています。授業でも、指示されたことをやるのではなく、子どもたちが自分の意思で学べるように授業をつくることが求められています。子どもたちが「主体的に学ぶ」ような授業づくりが必要だということです。
「指示」の対義語が「主体」であるならば、「指示」や「指導」に頼ってきた教師は180度マインドチェンジが必要です。
教師の「指示」や「指導」がなくても、子どもたちが自分の意思と力で様々なことができるようになる。果たしてそんなことが可能なのでしょうか?
子どもと一緒に考える
僕はそれを可能にする教師のマインドがあるとすれば「子どもと一緒に考える」姿勢だと思います。
例えば何かトラブルが起こった時、教師が諭すように子どもたちに話したとしても、それは「指導」になります。そもそも教師は大人という時点で子どもたちからすれば立場が上とみられます。こちらに「指導」の意識がなくても、教師の考えを話している時点では、子どもが納得する方向へ「指し導く力」が文字通り働いてしまいます。
そこを「子どもと一緒に考える」姿勢をもって指導にあたるとどうなるか。
「どうしてこうなってしまったんだろう」
「どうすればよかったのかな」
「なぜそれができなかったんだろう」
このように子どもの考えを引き出そうとする言葉で話が進んでいきます。教師が強引に導くのではなく、子どもたち自身が問題を解決できるようにサポートする。そうすることで少しずつ子どもたちが「主体的」に考えられるようになる。授業においても基本は同じです。
このようなことは、多くの教師がすでに知っていることです。しかし僕もそうなってしまったように、常に心に留めておかないと、つい「指示」や「指導」に頼ってしまいかねません。それが「指導」の罠です。
罠にはまってしまう理由は2つあると思います。
1つ目は、先述したように「指示」や「指導」をした方が楽だからです。正直「子どもと一緒に考える」姿勢をもって指導すると、ものすごく時間がかかって大変です。
子どもたちが頭を抱えて悩んでいることでも、大人はすでに答えや解決策をもっているケースが多いです。早く終わらせようとしてしまうと「指導」という楽な方へ逃げたくなります。あせらずに「待つ」というのは、自分が思っている以上に難しいことです。
2つ目は、自分が「指示」や「指導」に頼る教育を受けてきたからです。教える側に立った時、何の準備もしていないと、できることは自分の経験してきたことの中にしかありません。
自分が受けてきた「指示」や「指導」をそのまま目の前の子どもにしてしまうと、確かに自分はその「指導」に感銘を受けたのかもしれませんが、それでは子どもの「主体」は育ちません。
またベテランの方は「指導」がうまい先生が多いので、適切な「指導」をするように求められたり、よい「指導」の仕方ができると褒められたりします。そうする中で、自分も「指導がうまいといいんだ」と刷り込まれていってしまいます。ですが、そうなっている時点で自らの「主体」もなくなってしまっていることに気づくべきだったと思います。
「指導」に頼る負のサイクルから脱出せよ
冒頭に述べたように、僕は上からモノを言う教師が苦手です。自分もそうなるまいと試行錯誤していました。
しかし、元をたどると「自分の思い通りに子どもを動かそう」とする根本が同じである以上、個々の「指導」スタイルの違いこそあっても、結局は子どもを「指導」するのと似た教師であり、「指示待ち人間」のような子どもを育ててしまうことにつながっていたのです。
大変な学級をもったり、学年主任や部活の主顧問などの役職についたりすると「指導」する場面が増えていきます。「早く次へ進めなくては」と焦る気持ちが「指導」に頼るという結果を生み出します。
しかし「早く次へ進めたい」のも「分かるように納得させたい」のも、結局は「教師の思い通りにさせたい」気持ちから来るものでしかありません。つまりは教える側の都合なのです。
さらには「指示」や「指導」が多いということは教える側の負担が大きいということです。子どもたちがずっと教えてもらう人に頼る状態をつくり続けているわけなので、自分に負担をかけていることに変わりありません。それは自分の首を絞めることにつながってしまいます。
ここ数年で役職が増えて多忙を極めていた僕は、おそらくこの負のサイクルにはまっていました。学級は荒れているわけではなく、表面的にはうまくいっているように見えるから周りには気づかれにくい。自分で自分の首を絞めるおそろしいサイクルです…。
時間がない。早く進めたい→「指導」に頼る→自分の負担が増える→子どもたちが指示待ち人間になる→さらに自分の負担が増える→時間がない…
子どもたちの「主体」が育つことこそ、学級が楽になる本質だと思います。教師に言われなくても子どもたち自身が考えて課題を解決していくわけですから。
長い目で見て、本当に子どもたちに必要な力を育ててあげたいのなら、自ら答えを出せるよう「子どもたちと一緒に考え」、あせらずじっくりと「待つ」ということが大切。これが意外と難しい…。
始めは時間がかかるかもしれませんが、じっくりとやっていこうと思います。結果的にそれが教師を助け、子どもたちが社会に出た時にも役に立つ力になることを信じて^^