「殴られたい」に求める父性愛。vol2
※ネタバレ注意
2015年公開の「エイプリルフールズ」という作品がある。
出演者が豪華で、内容はコメディ。
「嘘」から繰り広げられる話で、27名全員が複数のエピソードに絡み合いながら、色んな「愛」を表現している。そんな作品。
《 本記事は、こちら↑の記事の続きです。 》
肝心の
「殴られたい」
と、いうことについて。
これは、ニュアンスを間違えれば
読み手に誤解を与えてしまいかねない内容だと思うので
できるだけ、伝わるように書きたいと思います。
わたしは「暴力は嫌い」です。
できるなら暴力とは関わりたくないし、受けたくもない。
多くの人が暴力を「間違えた理由」「間違えた方向性」で使ってしまう。
だから、
暴力は基本的に「ダメだ」と思っているし
わたしは自分の育児で使ったこともない。
娘や息子にも、
ニュースや、映画なんかをみている時に
「話すタイミング」があれば話題に出すようにしていた。
「暴力が嫌い」「ダメ」だと思っている
そんなわたしが、「暴力が『アリ』になる」と
「理解」として受け入れているものがある。
それが「父の愛」だ。
これは、本当に勘違いしないでいただきたいのだが
・酒を飲んで暴れる、殴る
・大人の「機嫌が悪いとき」に、殴る(殴られる)
・日常的に手をあげる
・こどもが、その大人の「言うことをきかない」ような状況で殴られる
これらは全て「間違えた理由」「間違えた方個性」の暴力で
完全に「大人の過ち」だし「犯罪(虐待)」です。
もし、
これらを受けているのであれば
迷わず人に助けを求めて欲しい。
これは「相手(あなた)を愛している行為」ではないから。
ただの、殴る人間の「弱さ」の発露です。
それを許してはいけない。
「弱さ」を、
その人は「自分自身で」気づいて、解決改善する必要がある。
その「気づき」を、ちゃんと与えないといけない。
たとえそれが、好きな彼氏でも、夫でも、父親であっても。
どうか、
当事者である人は
迷わずに「自分を守って」欲しいと思う。
そして、その人に「正しい気づき」を、感じる機会をあげて欲しいと思う。
なによりも、まずは「逃げて」欲しい。
あなたが、それ以上壊される前に。
という前提で、
「殴られたい」が、なぜ「父の愛」として結びつくのか
わたしが感じていることを話したい。
わたしは大人になるまで父に殴られたことはありません。
兄には、中学生の時に殴られたことがあります。
腹に一髪。大好きな兄だったので、ショックで過呼吸になり
親に病院に連れていかれました。
「男から殴られる」という行為は、わたしは一番最初「兄」でした。
それからかなり月日が経ち。
8年前です。親子問題のことに本気で取り組んでいる中で
父を「精神的に追い詰める」ことになったので
父から暴力を受けました。
その暴力は「愛」なんかではなく
父の「防衛本能」が働いた。そんなものだったと思います。
病院では「虐待ですね」と言われ、警察に行きましたが
男性の警察官に「あんた、父親の名前が新聞に出ていいの?」と
なかば脅され、しつこく言われるので、被害届を出すのをやめました。
そんな経験があるのですが。
わたし自身は、
父の暴力から「父の愛」を感じたことはありません。
わたしが、なぜ「殴ること」で「父の愛」がある。
そう「感じる人がいるんだ」と思うようになったのかというと。
ある一定数、
そういう「家庭環境だった」という人が
いるんだろうな、と。
「殴ること」で「父の愛」を感じるような人は
父親から自分に対する「関心が薄かった」人。
実際に薄いか、薄いと自分がそう思い込んだか。
いずれにせよ、父親に「もっと、かまって欲しかった」人。
エイプリルフールズの映画の中では
小学生の女の子(Bちゃん)が、万引き常習犯で。
男にさらわれ、親に身代金要求される人質となるんですが
「親はカネ出さないよ。
別に、うちの親はわたしのことなんて大事じゃないし」と。
自分は「大事にされてない」と、
そういう理由で、定番の「非行(万引き)」や
「自分なんてどうなってもいい」という投げやりな態度で居ます。
Bちゃんの家庭は「再婚」で、新しい父親と住んでいる設定です。
結論からいうと、最後Bちゃんは新しいお父さんに「殴られ」(平手打ち)
万引きしたことを叱られ、「一緒に謝りにいこう」と。
泣きながら、抱きしめられながら、そう言葉にされるのです。
これ、
わかるでしょうか。
Bちゃんからしたら「お父さんから愛されているか」不安で、
お父さんからの「自分への関心」が欲しかった。
そこへの、「確かな感覚」が欲しかった。
そして、お父さんの言動。
Bちゃんを殴ってます。そして、Bちゃんの非行に対して
きちんと「叱って」ます。
そして、そのあとちゃんと、「抱きしめる」という。
Bちゃんい対して「本気」みせてるんです。
本気でぶつかってる。
泣きながら抱きしめる。
これって、「おまえに、そんな寂しい思いをさせていたのか」と。
そういう、「愛が伝わってなくて、ほんと、ごめんな」の、表現だと
わたしは思うのです。
わたしは、あなたのことを、
こんなにも、大切に想っているのに。
という。
そういう、表現のカタチなんだと。
これが、
わたしが感じた「殴ること」で「父の愛」と結びつく
唯一「暴力が許される」条件というか、事象だと
そう思うのです。
そして、
現実的にも。
わたしではないけれど、
わたしと同じようにAさんに関わる女性で
「殴られること」で「お父さんから愛されたかった」と
言っている人がいて。
世の中には、
そういう「カラダをつかって」父の愛を「確かめる」
そういうことを望んでいる女性がいるんだな、と。
わたしには「ない」けど、
そういうことが「ある」人もいるんだ、と。
とても勉強になったのです。
愛について。
愛の「確かめ方」について。
すごくデリケートな問題です。
これは、うまくいけば、すごく「いい」けど
間違える可能性、パターンの方がすごく多いと思う。
人は、「男性」に「父の愛」を求め、重ねてしまうから。
DV夫や父親から逃れられない人の心理にも
ものすごく深く関わっていると思う。
だからこそ、
声にだして言いたいし。
そういう「こころの仕組み」に対する「理解」が
とても大切にになってくるのだと
わたしは思っています。