児童養護施設にいるこどもたちと、私。良い関係性でいられるワケ。
全く一般的ではないわたしの人生。
その人生に巻き込まれた、わたしの娘と息子。
MAIという人間を母親として、自ら選んだのか、ハズレをひいたのか。
そんなことは分からないけれど、
二人はわたしの子供として、この世に来てくれた。
二人は、わたしのせいで
人生で、2回も児童養護施設に入る運命になった。
今、こどもたちは施設で暮らしている。
わたしは「人運」が良い。
こどもたちに関わってくれる「人の運」が
ものすごく良いと思っている。
今回も、ものすごい「奇跡的」な方に
運が動いてくれて、
こどもたちの「希望」が叶った。
回数で言えば2回目の入所なのだけれど
1回目の時と、今回とでは「全然違う」。
こどものスタンス、気持ち、状況も。
わたしのスタンス、気持ち、状況も。
同じ「児童養護施設にお願いする」行為だったけど、
今回は、そこに「本人たちの意思」が加わった。
1回目の時は、こどもたちがまだ
未就学児と小2という
言葉で説明して理解できるような年齢でもなかったし。
もちろん「一方的に」することはできたけれど。
2人が「理解する」には、あまりにも幼かった。
2回目の今回
こどもたちは、十分に「わかる」年齢で。
もちろん、どの程度「理解」しているかは分からない。
けど、十分に「わかる」くらい
わたしと子供たちは「一緒に過ごす」時間、生活を送った。
その期間、丸2年。
こどもたちは「不登校」ということもあり
わたしと子供たちは、ものすごく密度の濃い「一緒の時間」を過ごした。
不登校というと「イメージが悪い」かもしれないけれど。
我が家の2人は「明るい不登校」で。
学校の先生や、スクールカウンセラーの方も
ビックリするというか、拍子抜けするくらい「明るく、いい状態」の
不登校期間だった。
どういう時間だったかというと、
子供たちが3年半過ごした施設から退所し、
再度一緒に暮らすという「メンタルケアの時間」として
その不登校の2年間の期間は、あった。
別に、最初からそう設定していたわけじゃない。
こどもたちを「施設に入れてしまった」罪悪感を
わたしはまだその頃強く持っていて。
こどもたちの「こころのケア」は
わたしの仕事だし、責任だと思っていた。
それに尽きる。
こどもたちと一緒に暮らす中で、
気になること。気を配るべきこと。
とにかく「一緒に生活すること」で
みえてくるもの、感じられること、というのは
物凄く大きいから。
必然的に、
わたしは「こどもたちのこころのケア」が
そのとき、一番「重要なこと」だと
感じたし、そう決めた。
学校に行くか行かないか。
もちろん、「本人の意思」を尊重した。
2人とも「行かない」だった。
学校に行っていた時期(施設に入っていた時期)
イジメがあったわけでもないけど。
息子は「発達特性」が強い傾向もあったので
学校は「合わない」方だった。
2年の間で「行きたい」とは一度も言わなかった。
一方、
娘はというと、あまり発達特性はみられない。
3人の中で一番「一般的」というか。
学校も「楽しい」と言うような人だったので
娘は、学校に時々行く選択もとっていた。
最終的には、
2人とも支援センターに毎日通い
楽しく過ごしていた。
その、「ケアの時間」である2年の間に
たっくさん、話をしたし。
たっくさん、「わたし(母親)」を感じてもらった。
言葉で色々言ったところで
結局「実際に、みて、聞いて、感じる」ということが
一番、強い。
一緒に暮らすことで
わたしはもちろん、
こどもたちにとっても「母親」をみて、感じる
とても良い機会になった。
こどもたちが「どう感じるか」というのは
たとえ、母親であったとしても
コントロールできるものじゃない。
こどもが、どう感じるかは
こどもに、「委ねる」しかないのだ。
といっても
母親として、
とことん「落ち込んでいた」わたしにとって。
死んでもおかしくないくらい、追い込まれていた
わたしにとって。
2人と、また「一緒に暮らせる」その現実は
この上ない幸せだった。
「幸せすぎる。。。。」
と、毎日感じていたし、
よく口にしていた。
こどもたちは、そういう私は
イヤというほど感じていると思う。
こどもたちはというと、
それまでにはなかった「自由」を手に入れることができて
そういう意味では「幸せ」そうで。
なによりだった。
けど、
だからといって「問題がない」わけじゃなく。
施設にお願いしたこと。
こどもたちに「不要だったはずの我慢」を強いたことは
わたしの責任だったので
その「こころのケア」に、わたしは必要な時間を割いた。
もちろん、その時も
わたしには「親子関係の改善」のプロが
わたしのメンタルのサポートをしてくれていて。
ずっと、助けられていました。
そのおかげで、
こどもたちが不登校でも、
わたしが不安定な状態をぶりかえしたとしても、
軌道修正することができて
「こどもの心を守る」ための
日々の選択をし続けていくことができた。
そんな、2年間。
本来だったら
そのまま一緒に暮らし続ける予定で。
わたしも、もちろん、子供達も
そういうつもりで暮らしていた。
はずだったのだけど。
わたしは、
まだ自分を「見誤っていた」のです。
「普通の人ができることを、
わたしも、できるはず」
「親子関係のこと、ここまでやったんだから
絶対、できるよ。わたしにも、できる」
そうやって
自分を「できる」と思い込ませていたんだけれど。
わたしは、
自分の「特性のこと」を、結局受け入れられていなくて。
結果、わたしにとって
「無理なこと」を受け入れることができていなかったのです。
わたしには
自分の「課題」として残っていた
自分にとっての「仕事とお金」について。
まだ、くすぶったまま。
「課題」として大きく残ったままでした。
社会と、わたしとの接点。
社会に対する、自分の活かし方。
わたしは
子育てにおいて
「母性」という最強の強みを持っていたおかげで
こどもたちが幼児の間は本当に「いい仕事」をした。できた。
けど、「父性のチカラ」が必要になってきた時点で
こどもたちにとって「マイナスなこと」が一気に増えてしまった。
わたしの「苦手な分野」であり
自分で「確かな感覚」が、あまりにも少ない。不安。
そういうのが、モロに出てしまいました。
一緒に暮らしたい。
「わたしが」関わりたい。
そんなエゴの声は大きかった。
こどもたちと、何度も「話し合い」の時間を持ちました。
必然的に、そうなった。
今回
こどもたちの意思と、わたしの意思で
離れて生活すること、になりました。
こう決まるまでの数ヶ月は
沢山の公的機関に「相談」をしに行き、
わたしのことも、わたしの子供達のことも
第三者の目線でみてもらい、
協力を仰ぎ、「こども」に関わる分野の
色んな方から色んなアドバイスをいただいて。
わたしたち親子の「今」が、あります。
こどもたちは、
本当に、周りに愛されて育っていて。
良い方達に関わってもらいながら
笑顔で、たくましく、生きています。
こどもたちの幸せを願い
関わってくださる心ある方達に助けられ
わたしも助けられ。
本当に
人には恵まれていると思います。
一緒に居ることだけが
「家族」「親子」である証ではない。
わたしは、
物理的には離れているし
精神的にも「健全に、離れる」ことができるよう
こころのトレーニングを受けてきた。
こどもたちは
健全に「自立」の道に進んでいて。
わたしも、自分の「母親の役割」が
一旦、終わっている。
一番大事なフェイスは終わり、
もう一段階「先」のフェイズに入ったのです。
だからこその、今。
自分の人生に
誇りをもち
胸を張って生きていけるように
今日もまた
生きています。