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【心得帖SS】「バリューチェーン」は、輝いていますか?

「…おや?」
「あれ、今日は早いですね、トクさん」

大通りを二筋ほど外した裏繁華街の片隅に、ひっそりと佇む立ち呑み居酒屋。
肩肘張らず、素の自分になりたいとき、京田辺一登はこの店の暖簾をくぐる。
果たしてそこには、すでに一人の熟年サラリーマンが黒枝豆をツマミに中ジョッキを傾けていた。
彼は京田辺と同じ会社、生産部に所属しているベテラン社員の徳庵義雄であった。
殆ど同じ時期にこの店を探し当てた2人は、この空間の中ではフラットに色々なことを語り合う、良き飲み友達となっていた。

「一登クンは、部署を問わずによく若いモンの面倒を見てくれて助かるよ」
二杯目のビールを注文しながら、徳庵が嬉しそうに京田辺を褒め称えた。
「よしてください、ヒトに構うのが好きなだけで、特に大したことやってないですよ」
お気に入りの缶詰を開けた京田辺が、後れじと生中を喉に流し込む。
「大したことない、そうサラリと言えるのが凄いことなんだ」
良い感じにアルコールが回って来た徳庵が、毎回話しているお気に入りのエピソードを披露する。
「あれは、一登クンが課長として戻ってきた時のことだったなぁ…」

『え?何のチェーンだって?』
製造工程図を睨んでいた徳庵は、聞き慣れない言葉に顔を上げた。
『【バリュー・チェーン】ですよ、トクさん』
パリっとしたスーツを着こなした壮年の男性が、優しい口調でそう言葉を返した。
やや寝癖の残る頭をガリガリ掻いて、徳庵が彼に向き直る。
『あのねえ一登クン、いや京田辺課長。そんな横文字を使われてもオジサン分からないよ』
彼が若手営業担当だった頃から面識があったので、ついつい砕けた言い回しとなってしまう。
柔らかく反論しながらも、徳庵はこの新任マネージャーが単なる格好付けだけで横文字を使っているとは思えなかった。

『5年振りに戻ってきて、驚いたんです』
京田辺は静かに話し出した。
『このフロア、営業と他の部署が殆ど会話していないじゃないですか。必要最低限の業務連絡以外はお互い変なカベが出来ているみたいだし…何があったのですか?』
京田辺の鋭い指摘に、徳庵は苦虫を噛み潰したような顔をして言葉を詰まらせた。
『思い当たることはあるが、ここでは話せないな。ちと、河岸を変えようか』

『この立ち呑み屋、少し前から気になっていたんです。さすがトクさんですね』
裏繁華街の片隅にある立ち呑み居酒屋の暖簾をくぐった京田辺は目を輝かせた。
『早い時間だと滅多に客が来ないから、密談にはもってこいという訳だ』
早速生ビールを2つ注文した徳庵は、奥のカウンターに陣取った。
やがて中ジョッキがやって来たので、カツンと杯を合わせる。
ぐいっと一気に半分ほど空けた徳庵は、ポツリと話し始めた。

『数年前、ウチの経営陣がいきなり【利益思考】に舵を切ったことがあっただろう?』
『そうですね、確か大株主の意向が色濃く反映された結果だとか』
『本社の部署間でも毎日大喧嘩していたようだが、地方の部署でも自部署の利益を守るためにコストの押し付け合いが始まった。部署のトップ同士が元々相性良くなかったこともあって、たちまち冷戦状態になり、件のトップが異動した後も、其処彼処でわだかまりが残っている状態だ』

『…成る程、理解しました』
何処からか引っ張り出したサバ缶をパカンと開けながら、京田辺が首を縦に振る。
『一登クンは昔からウチの部署や物流、総務の島に来てワイガヤやってたじゃない。ああいう雰囲気が無くなってしまったのは少し寂しいと思う今日この頃かな』
気分と共に、酒のペースがぐっと落ちた徳庵。暫くじっと言葉を控えていた京田辺は、一気にジョッキを空にすると、据わった目をしてこう言った。

『…トクさん、【利益は結果】です。目的ではありません!』

『利益は…結果?』
『マネジメントの祖、ピーター・ドラッカー氏が提唱した【利益の役割】に記されています』
ここ数年の会社の方針を全否定する内容に戸惑う徳庵をよそに、京田辺は凛とした口調で話を続ける。
『利益を目的にすると、その本質に誤解が生じて、例えば【儲かれば何をやってもいい】というような誤った判断が生まれてしまいます。そのような会社は長続きしません』
『しかし…会社が存続するためには利益が無いとダメだろう』
『確かに、そうですね』
徳庵が疑問に思ったことを肯定した京田辺は、水割りが入ったグラスをカラリとひと回しして言った。
『ドラッカーは【利益とは、企業の目的を果たすための条件である】と述べています』
『うーん、難しい話はよく分からんが、その企業の目的、ってやつは何だい?』
『それは、事業を継続・発展させて、社会に求められる企業になること。言葉を変えると【顧客を創造すること】です』

『顧客を…創造』
『この目的の前では、セクショナリズムは通用しません。モノづくりの起点からお客さまの手元に届くまで、あらゆる部署の方々が同じ方向を向いて価値の鎖を繋ぐ【バリュー・チェーン】が最も重要となるのです』
ここでようやく、徳庵が彼に事務所で聞かされた最初のワードに繋がった。
『バリュー・チェーンを強固なものにするには、コストの押し付け合いのような【引き算】ではなく、其々の部署若しくは部署間の連携を以って付加価値を創出する【足し算】と【掛け算】が肝要です』
まだ戸惑いの消えない徳庵の顔をしっかりと見据え、京田辺は笑って言った。
『トクさん、もう一度あの頃を取り戻すために力を貸して貰えませんか?今の若手社員にも、バリュー・チェーンが輝く世界線を見せてあげたいんです!』

(…まだまだケツの青いガキだと思っていたが、なかなかどうして、随分と筋が通っているじゃないか)
徳庵の心の中で、小さな炎がポウっと灯った。
(よおし、いっちょやってやるか!)

「…そこからは楽しかったなぁ」
回想から戻って来た徳庵は、すっかり温くなってしまったビールの残りを喉に流し込んだ。
「2人で方々を駆けずり回り、色々な部署のキーマンを一本釣りしてタスクチームを結成。時には経営陣ともガチでやり合ったよなぁ」
「ご当地新商品開発のときですね。懐かしい」
難攻不落の商品開発担当役員(副社長)を攻略したときの痛快な気分を思い出して、京田辺は目を細める。
「あ、たまーに議論はそっちのけで只の飲み会になったこともありましたよね」
「ああ、その宴も含めて、あのとき起こした行動の1つ1つが今に繋がっている。ワタシはそう信じているよ」
重みのあるそのひと言に、京田辺は少し目を細めて笑い声を上げた。
「ははっ、やっぱりトクさん勿体無いですよ。今からでもマネージャー目指した方が良いんじゃないですか?」
「よせやい、俺ァ人前に立つのは大の苦手なんだよ」
謙遜とかではなく本心で嫌がっていることが分かった京田辺は、ふうと息を吐いて柱時計を見た。
「あ、結構時間経ってますね」
「本当だな。よし大将っ!お会計と、いつものを頼むよ」
「あいよっ、いつものね」
陽気な大将がレジ横の収納棚から取り出したモノを徳庵が受け取り、カウンターの上に置いた。
「…今日はジェンガですか、負けませんよ」
「フッ、ジェンガマスター徳庵を舐めるなよ」
指をポキポキ鳴らして身構える京田辺と、余裕の笑みを浮かべる徳庵。
この店で最初にバリュー・チェーンの話をした後、どちらも相手の会計を含めて払おうとして収拾がつかなくなって以降、会計時には毎回レトロなゲームで支払いを掛けた勝負を行なっているのだ。

「くっ、このっ!」
「ちょっとは年長者を労わらんかいっ!」

こうして、歳の離れた旧友同士の穏やかで賑やかな夜が更けていくのであった。

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