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【短編】ひとひらの幻想曲 2 まどろみ
“ 自身の存在を芸術に見出す価値観 ”
——わたしは人を愛し、感謝をする姿勢に徹している。
これは人望と徳を兼ね備えた最も信頼のおける友人から受けた影響によるものだと思っている。
その男とは伊豆の下田にアトリエを持ち、今、最も期待される抽象画家のひとり、丹曜命(たんようめい)であり、生まれ持った感性、誠に豊かにして、形態や事象・感情を客観的にカンバスにぶちまける天賦の才の持ち主である。
彼の代表作と言われる『語らいの本質』を直視したときには脳が破裂するほどに、作品の前で驚愕したまま全身の震えが治まらなかった。
まさに持って生まれなければ、表現することはできない技量があった。神が絵筆を握るがごとくに一意専心で仕事に向かい、アトリアからは目途が立たなければ一切出てくることはない。
彼は人との接触を極度に嫌っている。画壇では異端児的な存在ではあるが、本来は自由奔放のお洒落な性格で、わたしは好感を抱いているのだ。
斯くして、この画家の作品との邂逅の衝撃は、わたしの音楽的芸術に対する概念を大きく飛躍させる決定的要因となった。
芸術があるから、この世に自分が存在することの価値を見出せている。
種子が芽吹くに至る陽の光を一途に求めるように、わたしも音楽観を磨くために、ひたすら美術に文学、芸術美の極致にむさぼりついた。
サンプリングで偶然に抽出した、このヴァイオリニストに交渉の末、取材の機会を得たのも何かの縁。
ひとりの音楽家の才をみるは、良い研究材料になろうことを疑うつもりはない。
ここで少し考えを方向転換して、この取材で得られたことをアウトプットすることにして、逆に何ができるかを考えていくとするか......
では、ここでヴァイオリニストが音楽をいかに学び、そして、いかに音楽観を習得してきたのかを探り出してみよう。
そして、ここで初めて彼の演説に合いの手を入れることになる。
音楽が聴き手にすぐさま感覚として耳に伝わる話ですが、あなたが音楽という魅力に取り憑かれ、ここまで多分のご努力でこの道を極められてこられたことはよく理解できました。
そこでお尋ねしたいのは、あらゆる音の性質を秘めた内在的な触発はあなたの音楽活動と演奏にどのような影響を与え、そしていかにして今日に至る技術の獲得、小さなチャリティコンサートから、オーケストラとの共演まで幅の広い活動をこなされるまでに至ったのでしょうか。
これまでのご苦労を少しばかりお伺いしたいのですが……
その直後、痰が絡んだので、軽く咳払いをわたしがするや否や……
「その前に——」
とヴァイオリニストはわたしの質問を一旦、片隅によけるように遮る。
まだ言い残したことがあるのか、若干不服そうな顔をしていたが、タイミングを得たとみた途端に勢いよくスラスラと淀みなく話を始めた。
「まだ、音楽が有する性質によって、演奏家の演奏がそれぞれ異なってくることを説明しなければ、今日の本題に触れたことにはならないので、あと、若干その話をさせてください。
そうでなければ、ここへ来た甲斐がないというものです。
さあ、では音楽全般がすべて同じ性格を帯びているわけではないことは愛好家の皆さんでも良く分かっておられることとは思いますが、演奏家が曲を演奏する際には、譜面を見る前にしておかなければならない重要な作業が実はあります。
譜読みの段階で音づくり始める前に、わたしは作曲家の紡ぎ出す一つひとつの音が命を宿すものと先ほどもお伝えしました。
その上でそれぞれ作曲家の音にも個性があるために、十分にそのことを認識しておかなければならないのです。
これは、バロック時代であろうと、古典派であろうと、ロマン派、そして印象派の作曲家であっても、人の性格・性質は千差万別であるように、作風が同じものは一人としてなく、音の発生段階で演奏家がすでに決まっている作曲家の個性を音楽に吹き込んでいるのです。
例えば、同時代の二人の作曲家を例にとって比較してみましょう。
ええっと——、ではロマン派時代のメンデルスゾーン(1809-1847)とシューマン(1810-1856)について考えてみます。
どちらもドイツのまったく同じ世代の作曲家でありながら、その生涯にわたる功績はそれぞれ違う方向に向けられていました。
メンデルスゾーンはバッハという自国の偉大な遺産をあらためて世に知らしめた人です。
早期に音楽教育を受け、いち早く才能を開花させ、20歳にして師のツェルターの反対を押し切って“マタイ受難曲”を上演し、成功を収めました。
このことがバッハの作品が世に送り出されるきっかけとなって、今では何の妨げもなく、CD、音楽配信や楽譜が手に入り、作曲家の作品を楽しむことができるのです。
彼は古典派の理念を継承しつつも作曲家・指揮者として躍進し、新しい色彩感覚を備え、形式、和声においては気品あふれる繊細な心情を音楽にしています。
純粋で透明感に満ちた感情豊かな音楽性が特徴と言えるでしょう。
メンデルスゾーンの音楽を演奏するには、純粋な和声を好んで使いますから、無言歌や管弦楽曲の緩徐楽章などは歌い込むとともに、しつこさのない柔らかな音が求められます。
また、スケルツォなどの軽快な楽曲もシンプルな音の構成によって、星屑がパラパラと降り注ぐように、そして時には重厚で荘厳な響きを湛えます。
メンデルスゾーンの音楽は耳に心地よく、演奏している側も弾いていて楽しく悦びを感じます」
でもそれは他の作曲家でも言えることなのでは——?、まだまだ素晴らしい作品を残した作曲家はたくさんいるはずですし、喜びを噛みしめるような音楽はほかにもあるじゃないですか。
不意に反論が飛び出してしまった。
早く次の聞きたいことに進みたい意味もあって、潜在的に出た行動だった。
「そう、メンデルスゾーンばかりを至上の幸せの象徴のように言うのは、語弊があるかもしれません。
時とともに刻まれてきた音楽の創造の世界は大きな変遷と発展が見られ、今日までの厖大な数の作品が誕生しています。
今はたまたまメンデルスゾーンを取り上げて、作風を説明しているにすぎないのです。
素晴らしい作品が無限に存在し、これからも次々と生まれてくる状況下で、音楽というジャンルは生活に最も密着しているとは思いませんか?
時には我々を支え、それは励ましとなって、現代人に活力を与えてくれます。
最大限に人の心を浄化してくれれば、最小限のストレスでいられるわけですから、音楽のない生活なんて考えられません。
メンデルスゾーンの音をつくるには重々しくなく、また粘り気の少ないあっさりした演奏に仕上げるようにするべきです。
音に力強さがあっても、さわやかな印象が残るように力を抜いて弾くのがいいのです。
——ということでお分かりいただけたものとして、もう一人の作曲家ロベルト・シューマンに話を進めます。
メンデルスゾーンの1年あとに生まれますが、同じように幼少から音楽教育を受け、ピアノを一生懸命勉強します。
でもあまり無理な練習を重ねたために、哀れ指を痛めてピアニストとしての道は断念してしまうのです。
その後は作曲に専念するようになり、ピアノ曲や室内楽曲、管弦楽曲などの多くの作品を残しています。
初期の作品はすべてピアノ曲でありました。
今までの古典派のピアノ作品とは趣を異にし、ロマン情緒を湛える新しい作風のもので、“アベッグ変奏曲”、“謝肉祭”、“クライスレリアーナ”、“子どもの情景”などの名の知れた作品はとても親しまれています。
その後、歌曲、交響曲、室内楽の各ジャンルで、集中的に個性豊かな作品を数多く残し、ロマン派に特有の標題音楽の礎を築くことにも貢献しました。
評論の分野でも『新音楽時報』などの音楽雑誌の普及においても力を注ぎましたし、ヨハネス・ブラームスの才能をいち早く見出して、世に送り出すこともしています。
ピアノの師であるフリードリヒ・ヴィークの娘クララと障害を乗り越えて結婚に至り、音楽演奏や作曲活動で支え合ってきましたが、壮年期である一八五四年、突然ライン川へ投を投げて自殺を図ろうとします。
救助され、命は取り留めますが、その後、精神病院での余生を送り、二年後に亡くなってしまうのです。
シューマンの音楽には心の温かさが感じられるとは思いませんか?
きっと人を幸せにする魔法の力が潜んでいるのでしょう。
時には音楽の美しさでは傑出していると感じることもあります。
でも、彼のすべての曲がそうかというと、またそうでもない。
田舎風の舞踊曲もあれば、子どものためのシンプルなピアノ曲、技巧を駆使したエチュード、あと言い方が悪いかもしれませんが、野暮ったいと思う作品も耳にすることがあります。
決してそれらの作品を批判しようというのではありません。
シューマンの心理的、精神的な創意から生まれた出た作品ですから、感情の不安定さによって生まれた作品も少なくはないと思うのです。
46年という短い生涯のなかで、作曲活動に求めてきたのは何だったのか。
それは今までの古典派には決してなかった純然たる形式美の追求と音の抒情性を持たせた新しい音楽空間の創造だったのかもしれません。
そのような訳でシューマンの音には一音一音に表情を込めるというよりは、動機や主題を単位として歌い上げていく演奏上の特徴が見いだせるのではないかと考えています。
音の大小とは違う意味での力強さといいますか、音楽性による繊細な表現方法を駆使して、愛情にあふれた音楽に仕上げなければなりません。
シューマンへの音楽批評に“オーケストラの扱いが粗雑”といったことを耳にすることがありますが、そのように感じるのであれば、それはシューマンの音楽の特質と考え、彼の批判の材料とすべきではない。
誰でも創作上の個性を有しているのであって、その個性を論じて評することは、その人格を評することに通じてくるため、わたしは人を批判することを好みません。
批評は批判のみにあらずして、利点の発掘に努めるのがよろしい、というのがわたしの持論です。
シューマンの作品の和声や旋律には驚かされることが多々あります。
わたしなんかはヴァイオリン弾きですから、室内楽では“ピアノトリオ”、そしてコンチェルトでは“ヴァイオリン協奏曲”などに心を惹かれます。
そんなところで、二人の同時代の作曲家でも、作品の性格の違いが現れているのを理解していただけたのではないかと思います。
つまり、演奏家たちは何も考えずに楽器を演奏しているのではなく、その作曲家が何を表現し、音楽を通して何を伝えたいかを斟酌し、その価値を音に求めていくことを知っていただきたくてあれこれと申し上げました。
“ 音楽に最上の悦びを感じるは人生の諸々の苦難を忘るることにあらずや苦難を乗り越える糧となるがごとし”というのがわたしの普段から思っていることでありまして、好きな音楽を聴いて、いやなことを一時的に忘れ去ってしまうのもいいかもしれませんが、私生活において人間に及ぼす絶望や精神的困憊からくる感情、情緒などを安定化してくれますので、自分の好きな音楽を聴くことは身体を癒してくれることにつながるのだと思います」
しびれを切らして猛然と次のステップへ進もうと試みるわたし。
でも、ヴァイオリニストは口をはさませる余地をつくらない。彼はペースを守り、淡々と語り続ける。
「あなたが望んでいるわたしがここまで音楽家として積んできた経験、それは“血のにじむような努力”のひと言だけでは到底言い尽くすことはできません。
ここであなたにお話ししても、一日あってもお話ししきれるものではないと思います。
それどころか、このあともあなたはいろいろな芸術家から話を聞くことになっておられるのでしょう?
わたしもそろそろお暇しなければならない時間になってきました。
以後の話はまた、日をあらためていただければ助かります。
どうか、今日のところはこれにてご勘弁をいただきたくお願いいたします」
最後にひと言……、と自分の主張を誇示しきったヴァイオリニストはさらにエピローグとして畳みかけるようとする。
わたしの聞きたかったことに配慮するような他人の気持ちを汲むことまではしない。
まるでお構いなしである。芸術家のある種の性格の一面が如実に現れている。
ひとひらの幻想曲 2 まどろみ (了)、3 かぎろい へ続く