【短編】境遇と悲愴
[上 境遇]
人間の気にもかけない特殊な極域。想像も及ばない感知不能の世界がそこに存在していた。
動物や植物のはなしではない。
はたまたあの世のことでもない。
空間と時間の絡み合うなかで、麗しい音の連なりを創造することを生業としている。
いい仕事をすることは、このものたちの本質的な使命である。
自力でそれを成すことはできず、人間の力を借りれば、その機能性は遺憾なく発揮され素晴らしい感動を生み出す。
彼等は職人の手によって命をやどし、この世に生を受けている。
そして店頭に陳列されると、人間に気に入られて買われ、その所有物となって扱われることになるのだ。
この時点で、彼等の運命は決まるものと言ってほぼ差し支えないだろう。
人間による技術の錬磨で上手にさばかれて、立派にその役割を担っていく。
その道を本職とする人間に扱われれば最高の本望であって、幸せと喜びにあふれた最高の本領を発揮することに幸福感を覚える。
この世界では、彼等に感情はないと言えば嘘になる。
あるじの才能で、その仕事の出来ばえは左右するし、あるじの技術レベルで彼等の感情は正にも負にも傾くのである。
彼等の仲間うちでこんな会話が交わされていたのをわたしはあるとき聞いた。
「あ〜あ、全然調子狂っちまうよう。今まで順調に仕上がってきていたのにさぁ、今日ったらまったくご主人様が調子が上がらないときたもんだ。顔色も悪かったし、こういう時は無理できないよなぁ」
「まったくそのとおりだわ。あたしたちだけじゃどうにもならない話でしょ? あるじの意思で操られるんだから。自分だけで仕事ができるわけじゃないもの。―あたしのあるじはね、親から強制的にあたしをあてがわれたもんだから、まだまるっきり初心者なのよ。これもまた先がどうなるのかは悩みどころでしょ?」
「ああ、上達してくれればいいんだがなぁ。途中で投げ出されちゃったりさ、才能が芽生えなかったりしたもんならそりゃ泣けてくるよな」
「ほんとね、仕方がない。しばらく経過観察だわ」
「ある程度の覚悟はしとかにぁならんてことだよなぁ。これも宿命なのかなぁ」
彼等はいつも自ら体調を万全に整えておきたい気持ちがあるのだが、気候の変動や季節による影響をとても受けやすいのが悩みの種なのである。
それにも増して、あるじの技量や体調の度合いに彼等の仕事が大きく左右されるものである。思い通りにならないことでストレスを感じることもあるらしい。また、別のものたちの会話ではこう訴えている。
「あたしのあるじ、いい音を出してくれないのよ。3か月前に買われた身なんだけどね、高校1年生の初心者さんなのね。しっかり練習に精だしてくれればいいんだけど、どうもあまり自分で進んで練習してくれないのよ。こういうのってつらい......。やんなっちゃう」
「まあ、そんなに悩みなさんなって。しばらく様子を見ようじゃないか。これからメキメキと上達していくかもしれないしな。おっ、おい......。そっ、そんなに泣かなくたって。おっ、落ち着いて......」
「―わかったわよ。―まだこれからどうなるかわからないし、様子を見させていただくわ。関心持ってほしい、ホンマに」
「俺んトコはまずまずだ。生徒に教える立場の大学講師に俺は仕えている。創造性豊かな発想力で、質の高い音楽を提供しようとしている意識を強く感じるから、ほぼ問題ない。このまま現状維持で突き進んでいければいいんだがなぁ」
ブロとして活動するあるじに支えているものと、そうでないあるじに仕えるものとの満足度は、ずいぶん差があるようである。
あるじの資質によるところで運命を決定づけられるという宿命。言わばみずからの思考や行動では自由を獲得できるわけではないことになる。
あるじに愛想尽かされて、誰にも使用されることなく、数十年の深い眠りについているうちに、ホコリをかぶって老体化していく者も少なくない。
今こそ正体を明かせば彼等楽器たちは、散々な不幸を背負った挙句に命を断つ末路もあれば、幸せな世界へと導かれて心豊かに一生を送る極み高き誉れにあずかる者。こうして二極の悲哀と歓喜に運命をはめ込まれていくのだ。
すべての楽器群は生産されたあとの一生を終えるまでの運命の如何によっては、気が気ではない。
一方、あそこで忠実に仕えているアマティのヴァイオリンを見たまえ。
みごとな色彩観にあふれた艶やかな音色を携えて、あるじに奉仕しているのがおわかりかと思う。
彼女は生まれながらにして、著名なるヴァイオリン制作者に注がれた愛情のもとに誕生した有数の名器である。
あるじは世界的ヴァイオリニストのKで、彼女の個性を熟知しつつ、Kの繊細な演奏テクニックによって、その美点を引き出すことに成功している。
彼女はKに所有されている限り、職責は十二分に果たされることになるわけで、Kが手放さない限りは、順風満帆な生涯なのであろう。
かの著名なトランペット奏者Mのペトロン、フルート奏者Tのシュール、打楽器奏者Qのナチュラル・モノフォニー、琵琶奏者Aの森口氏制作による筑前琵琶、人気篳篥奏者Tの桑材乙丸の篳篥など、挙げればきりのない名品の数々。
立派に役割を果たせば、気持ちの充実感とともに、豊かな心持ちで一生を終えることができるというものである。
彼等は人類や動物とは違って、物を食べるようなことはないから、飢えに苦しむことはないし、家族を養うために、音を出す役割以外に労働しなければならないこともない。
ただ、感情は持ち合わせているだけに、自分の運命に悶え苦しみ、路頭に迷うことも出てくるわけである。
自分でどうすることもできない運命に恐怖を覚えて悲観を抱え、自ら命を断とうとするものもとうとう現れた。
自らの手で本体の破壊行為に走ろうと世間に今生の別れを告げ、あるじの目の前で潔く高いところから少しの隙をついて、突き落ちたその無惨極まりない姿が見つかった。
それこそ誰にでも好かれていた人気者、ファゴットのマゼッパであった。とても滑稽な明るい性格の持ち主で、いつも他の楽器達の笑いをとる陽気さが皆に好かれていたのに、なぜ......
どんなに嫌なことがあろうとも、いつも明るい笑顔を絶やすことはなかった。仲間たちからの評判はそれは桁違いのものだった。
耐えられない環境に置かれてどうすることもできずに、その場で自決を覚悟したのだろうか。良質の楓の材質で制作され、高額で買い主Wに引き取られて活躍すべき環境の元にあったのに、彼の身の上に何が起きたというのか。これほどの哀れな悲運はない。
何事にも一生懸命だっただけに、周囲の衝撃は何にもまして大きかった。絶望を感じた仲間たちにはいつも励ましの声をかけていたというし、困っていた友にはいつも相談に乗って、その解決策を提案した。
その頼りにされていたマゼッパの身に何が起こったのかは、演奏会でよく持ち替えで代用されていたコントラファゴットのロレンスキーだけには打ち明けていたという。彼はその時の印象を切実に語り始めた。
[下 悲愴]
「本当に誰もが彼を慕っていました。悪く言うものは誰もいませんでしたよ。いつも周囲を気にかけて、体調の悪そうな仲間には優しく声をかけていました。
『どうした? 大丈夫? 今日は音出しはないんなら、無理しないで、ゆっくりしたほうがいい。ウチらは音を奏でるのが仕事だし、それ以外はおとなしくしているしかないよ。んっ? そうか。身体の部品が外れてしまったんだね。それはいけない。早くあるじに発見してもらって、修理をしてもらおうよ。な〜に、心配には及ばすだ。それによって、音が出ないとなれば、すぐに気づいてもらえるはずだからね。さあ、横になって休んでいたまえ』
そんな優しい気持ちの持ち主のマゼッパにも実は悩みはあったのです。
わたしたちは無二の親友として、長年の付き合いがありました。ある一緒にいたときのことでした。思い詰めた様子でため息を漏らしながら、悩みをわたしに打ち明け始めたのです。
今振り返ってみると、本人にとってみれば相当深刻だったんだと思いました。
ひとつは、彼本体に15cm程度の引っ掻き傷を負ってしまったことでした。
本当は誰にも言いたくなかったんだと思います。
楽器に傷がつくのは、致命的な破損となって、精神にも多大な影響を及ぼすようになります。
彼は本来、自分の悩みを他の仲間には決してさらけ出すようなことはしないタイプです。
それだけに、完璧主義な性格だと思われていたわけですが、実は胸が張り裂けそうな陰鬱な日々を過ごしていたのです。
あるじのWはしばらく彼のことを放置し、修理をしようとしませんでした。
そんな状況に置かれた彼はますます精神的に追い込まれていきました。
苦悩に打ち勝つことができず、生きて演奏していくことのすべを失ってしまったというのです。
自虐に走った彼は、それでも完璧主義を貫こうとしていたところがありましたから、そのギャップでなおさら絶望の淵に立たされたつらさに耐えられなかったのでしょう。
二つ目は Wが背徳者に近い人格の持ち主だったとが火種となって起こりました。思いのままに好きなことに浸り、気に入らないことがあれば一時的な激昂の感情に走り、身の回りのものを壊す性癖があったのです。
ある時、Wが生徒に対してレッスン中にリードの管理について説明をしていたところ、ボーっとしていて理解できていない様子にイラつき、叱りつけたらしいのです。
生徒もそこで、気持ちを押さえることができず、反抗心を抱くようになり、その場は激しく言い争いになったと言います。
Wはお湯が沸いたやかんのように、かん高い声の罵りが収まらず、生徒を破門したうえに、そばにあったマゼッパを力いっぱい床に叩きつけました。
ものすごい衝撃と痛みを感じた彼はもう音を発することはできないと涙ながらに悟りました。肉体的苦痛に耐えきれず、高いところに置かれた隙に自ら身体をのり出して落下したのです。
わたしたち楽器は心はあっても、言葉で感情や想いを発することはできません。楽器同士では意思は分かり合えるのですが、思ったことは人間には何も伝えられない悲しい性を背負っているのです。
今の想いは特別に神のご加護を賜って、地球上のすべての生あるものに伝えることができています。
物を食べることは必要としませんが、言わば植物で言えば心と葉茎の成長が音の美しい発音に相当するものと考えていただきたいのです。
忠誠心を尽くして、美しい音を発することが生きがいと言っても言い過ぎることはありませんし、それ以上何も望むこともありません。それだけが我々の幸せの根幹なのであります。
話をできるこの機会にどうか我々楽器群に以後、情けのひとつでもかけていただけたなら、これほど嬉しいことはありません。
愛情のひとつにも包まれることがないのなら、本心として楽器として生きていく自信を失うのも無理もありません。
わたしたちは浮かばれないマゼッパの弔いをWに代わって執り行いました。
不実の死を遂げたマゼッパからの笑顔の御礼があったと一緒にいた仲間たちから一斉に声が上がるのを聞いて、わたしは安堵しました。
不遇の晩年から、ふとした悲劇によって成仏しきなかった彼のささやかな願いはこれで叶えてやることができました。
繰り返して言います。思いやり、優しさ、愛情、友情、このうちどれかひとつでもかまいません。
言葉にしなくとも結構ですから、注いでいただけるだけで素晴らしい音楽を発する恩返しができるとわたしたちは思っています。
それだけ、―ただ、それだけが我々楽器群の一縷の望みあることを知っていただきたく思います」
(了)