【短編】B&M ① ~小ロンド形式による二人の作曲家のリレーション~ 1 主題A① ~クラシック音楽への誘い。〝聴きたい〟は感性の芽生え~
けがれのない純粋な精神は、とうに持ち合わせてはいなかった。
人生経験をある程度踏んでいると、神経をすり減らして営業職を耐え忍んでいたのは無駄な時間で、仕事の時間外の暇と退屈な時間こそが心を豊かにする貴重な時間だと悟っている。
そこから飛躍のチャンスも生まれ出る可能性があるのだ。
朝の満員電車に乗るのがいやで、サラリーマンは六年で辞めた。
一つの会社で三年と勤めは続かなかった。職も転々としたが、向いている仕事に出会うこともなかった。
イヤなことはしたくない性分で、こうした持論では社会的な順応はできるはずがないことは分かっている。
その頃は自分の先行きの予測がまるきり不能で何をしたらよいのかわからなかったのである。
その後、一年ほどして故郷の北海道に戻り、自分の住む小さな町役場がクラシック音楽協会とタイアップして演奏家を招聘し、町営ホールで来日演奏会を定期的に企画していることを知った。
そこからわたしの人生に一つの転機が訪れたのである。
ふとしたきっかけで、この町から〝音楽振興大使〟の委嘱を突然受けることになった。
「町民に多彩な音楽を紹介する役割を担っていただきたい」との町の文化担当者の話で、実際に仕事の実績に応じて、報酬をいただけるらしい。
〝音楽振興大使〟は過去のピアノの演奏実績や音楽学を修めた履歴から調査され選考されるとのこと。
どこで調べたのかは知る由もないのだが、数日前に突然のオファーがあったのである。
地元の出身という要素も充分に加味され、すぐにわたしは人々の心の痛みを和らげる役目を担おうと意志を固めた。
心に優しく、幸福感に満ちた、しかも町民に勇気を与えられる音楽の振興をめざすつもりである。
お役目上は本名を名乗らずに〝ロンディーノ(楽曲の小さなロンド形式の意)〟の愛称で仕事を進めて行くことにした。
委嘱を受けてまもなくのこと。町の文化担当者から、クラシック音楽を勉強して音楽ツウになりたい人がいるという相談が入ったので、早速、出陣の要請がやってきた。
それがどうもそれほど親しくもないが、相談者はわたしの知人―名は事情により伏せておく。
この記録を書くにあたって、本人が本名を知らせたくないとの意向によるものである。
以後、相談者を含め、当事者もわたしの付した愛称で著すことにする―らしいのだ。
その知人は、彼の友人に「あなたの内弁慶の息子には音楽の勉強をさせるのがいい」と、真顔で助言をしたらしい。
真剣に受け止めた知人の友人はチャランポランに息子を放っておいても好結果に結びつくはずはないので、「それは結構なことだ」と真剣に考えるようになったそうだ。
しかし、急に言われてもすぐに具体的な戦略はわたしには見えてきていない。
では、これから早速現地へ赴いて、その場でどう音楽を語ろうか戦略を練ることにする。
向かったのはまず知人宅である。
知人といってもSNS上で知り合ったので、顔合わせは初めてである。
そして早速、札幌市内へと向かう。
「どうも、只今参上つかまつりました」
「どうもこの度は―。あなた様の評判はまた聞きですが存じています。いやあ、それにしても今日は暑いですな」
知人は自分でも言うように室内が相当暑いとみて、エアコンの設定温度を下げた。
そばに皿に盛られている萎びた〝いぶりがっこ“のようなものをボリボリやっているところへ、わたしは出向いてしまったらしい。
食事中かと思い、あとにしようかと告げたが、「いえいえ、どうぞ」と相手も好意的に接してくれる。
だからこちらも意外と明るいキャラを装って反応してみる。
「わおお、ホント暑いです。わたくし、ロンディーノでございます。どうぞお見知りおきを」
駆けつけるなり、一人陽気にダンスを踊ったり、哲学書を開いて真剣に考えたりと相当無理のある仕草でお茶目っぷりをさらけ出してみた。
根暗の本性をこれで吹っ飛ばそうと、今回の相談内容を鑑みてその場の雰囲気を和らげようとする作戦である。
この先どうなるんだかわからない事情のなかで、いぶりがっこはわたしの口八丁手八丁のいい加減なカウンセリングでは困るのだがというような顔をした。
この人物、その友人からはゆるぎない信頼があるらしいが、あなただけが頼りなのだとばかりに眼が訴えているのがわかる。
「昨晩から急に肩が上がらなくなりましてね。五十肩ってやつですよ。あまり身体の無理もできんようになりました」とわたしは悩みを打ち明かす。
「それはお気の毒です。調子のよろしくない時にご足労をかけまして。こちらは幸いに日日是好日でありますが、歳とともに頭が思うように働かないので心も身体も社会の流れについていけなくなりました。こうした頼まれごとは人様に相談することしかできませんで。なにとぞよろしゅう願います。―で、そのお姿は? 巷じゃあ、シャツにズボンやパンツが主流ですが、これまたアイヌ民族衣装とは……」
と驚愕の念を隠せないいぶりがっこ。
「家系はずっと蝦夷の出でしてね。先住民族に対して敬虔の心を持つことを忘れないようにしています。単に文化を敬愛するだけでは飽き足らなくなってまいりました。〝肌で接して心で感じる精神〟であります。自由な身なりを許されていますので、仕事上の衣装として愛用しているのでございます。わたしは堅実ですよ。ヨボヨボのお爺さんがクルマを運転して移動するより、四輪歩行器具を使ってゆっくり着実に移動するほうが安全ではありませぬか? 神経をすり減らして会社で仕事をしていた時分に比べ、毎日が安居楽業で明鏡止水の心持ちです。要は楽しくね。―して、その人物とやらはいずこに?」
周りをキョロキョロと見渡しても、それらしい人影も見当たらない。
室内には我々以外にはおらず、鉢植えの大きなオリーブの木の葉が空調の送風に揺られているばかり。
空虚な時間にこそ飛躍の前兆が隠されているもの。
心にゆとりを持たせて次の行動に移すことを考えた。
いぶりがっこは真面目な顔してこう切り出す。
「一昨日でしたかね。『ウチへおいで』と言ったら、『じゃあ明後日』と言っていましたから、今日来るはずなんだがな」
「来るまで車で待つか……」
ちょっとした受け狙いはいつも忘れていない。
「はい、〝オモシロおじさん〟に座布団一枚」とニコニコ顔のいぶりがっこも反応は悪くない。
「偶然に出会った音の世界から、誰でも音楽を愛好できるようにしてご覧にいれましょう。音楽で世直しをいたしますよ。―あっ、いや、言い過ぎました。これは胸に秘めた我が啓蒙思想の一つでして……」
隣りの部屋からお内儀らしき声で、立ち話もなんだからお客様をすぐにお通しするようにとのお達し。
ここではお内儀の尻に敷かれているいぶりがっこ。
もてなしは受けない主義だと言いつつも、無意識に差し出された熱い茶の入った湯のみ茶碗に手が伸びるが、口はつけずにほうじ茶の香りだけを味わって茶托に戻す。
持参したパソコンを開いて、カウンセリングに応じる準備に入ろうとするが、いぶりがっこはまだしもお内儀までも寄ってきて、物珍しそうに顎を上げて下目づかいに画面を覗こうとする。
AIでも使ったお悩みカウンセリングでも始めるのかと思っているらしいが、知人に対していい加減な仕事はしない性分なので、過去の経験を駆使して用意したデータを使って最良のアドバイスを献上するつもりである。
当事者はノミの心臓のような人物と聞くが、真面目で引っ込み思案な人物には自宅でゆっくり興味心を引き出すようにしなくてはならないし、今回は真面目な活発型だとは想像し難いが、そうであれば外出先で気軽にできる精神の修養が求められてくる。
「必要なのは本人の性格に応じた情報支援です。あとは年齢によった好みの変化も現れます。適齢期ですと、なかなか植え付けるのは難しいですけど、まあやってみましょう」
気がかりなことがあれば、わたしはすぐに口に出してしまうほうで、「そんなこと知るかい」と言いたげないぶりがっこはこう受け応えた。
「ええ、当事者の子供の事情はよくわからないのです。知人からは俗に言う引きこもりでもなければ、遊び人でもないと聞いているんですが……」
「落ち着き払って胡坐をかいている場合ではありません。あなた様には事前に情報をいただきたく思っているところでして、それがない場合はその場の判断で適切な音楽を聴かせるしかありません。成果の得られない場合は、わたしの落胆は最高潮に達し……」
「もはやワシにはあなたの得体は知れたもんじゃないですな……、ハハハ」
そう言い切られてしまって、思考のなかではこの期に及んで謎に包まれた当事者の息子をどう導こうかまだ途方に暮れている。
扱いの厄介なケースに引き込まれた場合に、逆に素人まがいの忠告と受け止められ、業を煮やされても面倒くさいことになる。
こちらは親切心で対応しているのに、裏目に出てしまってはつまらない。
ここで冷静沈着ぶりをあえて装う。
「うむ。話が進めばすべて丸く収まるでしょう」
未曽有の情報不足に逆にいっしょになって胡坐をかいて、世間一般の根強い物質至上主義がなぜ情報収集主義に向かおうとしないのか、その意識の欠乏に嘆きたくなる。
暇なマダムがああだこうだと戯言を漏らすよりはまだマシだが、〝ロンディーノ〟という人間の情報を知るべきにおいて、二極化の末端にいるのを気づかせてやらねばならない。
「先方はまだ現れませんね。あなたにこの件は御預けしたいのですが、いいですか? 買物に行かなくてはならんのです。何しろこの身体で半日がかりなのですわ。女房だけには任せられない性分で、『ほっときなはれ』と肘鉄砲をいつも食わされます。任せたもんなら何を買ってくるのやらわかりませんからなぁ。変な物でも食わされてはたまりませんのです」
と神経質な反応を示すいぶりがっこ。
「習慣は人の忠告を受け入れて直せるものではありません。自分以外の人間を変えることはなかなか難しいと思われます。
信念としていることは、顕在意識の中の話だけにとどまらず、自然な行動となるものです。
潜在意識という半永久的な意識のなかでね」とわたしは持論を持ち出す。
「今や文明の衝突が起こっていると、ある国の食品環境庁に設置された消費推進懇談会議で指摘があります。日々継続して繰り返される買物という人間の行為に『ショッピング・キャンペーン』として、消費者がいつも食べないものを買わせて経済循環を良好に推進し、ポイントを付与するという仕組みです。わたしなら、そんなルールには乗りません。添加物が多量に含まれている物でも食わされてごらんなさい。身体がおかしくなるのは必定。我が国でやられたらたまったものではない」
といぶりがっこは意外に強情な発言を展開する。
閉口状態に陥った空気感をどう拭うのか、信念の強い潜在意識をどう書き換えるのか、二重の混乱を自分で自分に招いたにもかかわらず、わたしは発言を撤回するつもりは少しもなかった。
気持ちを押し殺すのも心が病みそうな気がするので、「このままではいかん」と絶賛の攻撃へと転じる。
もはや人様の家にやっかいになってまで、口論に発展させるほど、拍子抜けしてしまうことはないとの反省。
仕事を早く済ませて、居酒屋のカウンターで早く独り落ち着いて一杯やりたいのを我慢しているのだ。
いぶりがっこは立ち上ってジャンパーを羽織り、お内儀に「早くせい」とまくし立てる。
「天気もよろしいでしょうから、ゆっくり楽しまれるとよろしいでしょう。わたしが留守を預かってよろしいので? 人様のお宅の番人とは大切なお役目。そうであれば果たす心の準備は整っております。あとは〝音楽振興大使〟との二重の責務をきっちりと担ってまいる所存」
「大丈夫です。奥に引きこもった息子がおりますゆえに、あなたのことは言っておきます」
子息の存在を知って、安堵した表情が滲み出るのが自分でもわかる。
ああ、心身の癒しと調和を人様に提供して何事もなく今日の仕事を終え、湯舟に浸かるような夢の心地に浸りたい。
しかし、一発気合を入れ直してまだ仕事の最中なのだと現実に立ち返り、職業意識を新たにする。
〝ふるさとは遠きにありて思うもの〟。
自宅を故郷に見立て、居慣れた場所でストレスフリーに過ごすのは心が満たされものだ。
とかく社会構造がぎちぎちに編み込まれた現代に、会社勤めでがんじがらめの生活を余儀なくされているのが常である。
規範や法律が人の生きるお手本となるのは明々白々とは言え、このような環境にほどよく順応している者と世の末端で喘ぐ者の二極化の差は縮まることはない。
後者が生きることに苦しみ続けている精神是正に向けた完全治療は、困難を極めている。
無間地獄の世から阿鼻叫喚の人々の精神的不安を拭いたいと始めたのがこの仕事であった。
働かなければ食えない者が働けない苦悩に耐えられずに、〝おせんころがし〟のような危険な場所から身を投じるようなことだけはさせたくない。
言わば、行政から依頼されて派遣される生真面目な音楽振興大使のイメージは払拭して、何でもござれと馬鹿踊りを披露して相手の緊張をほぐせればと思うこともある。
あるいは急に静まり返って、真面目に仕事に集中するような二面性を見せるのも、返って逆効果と懸念をしている。
本人がいないのに、誠意を見せて突き進むほかあるまいと今思うのもどうだろう。
色々迷うが手を変え品を変え対応するよりは、着実に効果が見込まれるアドバイスを供与していくべきなのだろう。
(いつも銀座の柳の木の下でたたずんでいた粋な我が老兄は情緒を重んじ、効果的利他主義を貫いた人だった。わびさびの美意識を好み、理路整然と仕事を嗜むところの人間性には畏敬の念しかない―)
独り言の多いのを訝るように奥の部屋からヌッと現れたのは、眠たそうな眼をこすっているいぶりがっこの息子だった。
「やあ、こんにちは。お父さんに頼まれて、ある人を待っているのです。お騒がせしてごめんなさい。迷惑はかけないようにしますから、どうかお許しのほどを―」
無言、無表情の上に、一枚のぬりかべのようなデカい図体で近寄ってきたものだから、床がミシミシ言うのがどうも気になって仕方がない。
「オジサン、エライ」
「……」
予想だにしない突然の呼びかけに、冷静さを意識して落ち着きはらってひと言。
「筆舌に尽くしがたい苦しみを今までに味わってきました。今日は精神上患ってっていると思われる方がこれから来るので、音楽の話をしようと思っています。静かに執り行いますが、何分ご容赦をお願いします」
「オジ……、オジサン、スゴイネ。オジサン、ナニモノ? 教エテクレル? ベンキョウデキル?」
百段、二百段の階段を上がって来たわけでもあるまいに、わたしの呼吸が荒くなってきた。
単に尿意を覚えたのもあるが、今日考えていた思考の整理棚に入っていたネタが不測のうろたえで全部ぶっ飛んでしまったことが大きい。
奇妙で不明瞭な口調で素性を聞かれて、頭の中だけで考えていた予定がみごとに真っ白。
〝無〟の境地に陥ってしまった。何だったかなと思い出させる隙も与えず、息子はしつこく物を尋ねることをやめようとしない。
「オンガクハ楽シイネ。聴キタイネ。ドンナノガ好キ? オジサン、ナニ聴クノカナァ」
「音楽? ええ、なかなかよろしいですよ。クラシックが主流でして、心の病を持っている方が受動的に音楽を聴くだけでも心身ともにリラックスできますからね。今日の依頼人がまだ来ないので、あなたにおすすめできる音楽をお教えしましょうか? 今までどんな音楽を聴いてきたのかを教えてもらうだけで、嗜好を変えずにその延長線上にある深い音楽をご紹介できますよ」
「イイナァ、クラシック。ヨク聴クノハクラッシク。オジサンハクラシックヲ聴クンダ? ウチモ聴ク。ナカマダナァ、オジサン」
ぬりかべは一応、音楽に関心があるものと推察できる。
彼を取り巻く一定の環境において、順応しきれていないのであれば、その反動は一つの関心事に集中した生活に陥りやすく、社会的孤立に追い込まれている可能性がある。
時間的な制約があるところで、ぬりかべの話し相手になることは一定のリスクをもたらすのかもしれない。
ぬりかべとの相性は接するところ、今のところ悪くないと言えそうだが、話の進行で機嫌を損ねてはならない。
でも、楽しい会話が弾む想定も捨てきれない。いずれにしても、本来の相談人が来るまでの間であるから、さほど大きな問題にはならないだろう。
いつ来るかわからない訪問者をずっと待っていれば、そのうち埒が明くのだろうが、もし当事者が来て期待にそぐわないで帰ってしまった場合は、その時はぬりかべとしばらく音楽談義としゃれようかと、先ほどからの緊張を少し和らげるつもりでいる。
そのままぬりかべを一層クラシック好きにさせてしまえばよいのだ。
「クラシックも歴史的にみると、その時代、時代に見合った音楽が生まれているのはおわかりになるでしょう? また音楽の編成に焦点を当てればピアノ一台で演奏するピアノ曲もあれば、複数の楽器で演奏する楽曲もあります。弦楽ではヴァイオリン二台、ヴィオラ一台、チェロ一台で演奏する弦楽四重奏曲などが一例ですね。あとは多くの金管打楽器で編成されたオーケストラの存在を無視することはできません。あなたはこの世に無限に存在する音楽から何を選んで聴いていらっしゃるのか、そこから伺いたいものです。そこはこちらとしては興味津々なところでありましてね―」
「オジサン、知ッテルナァ。ウチハソレホド知ラナイ。ダケド、クラシックハイイナァ。ドンナノガイイノカナァ」
「響きの美しいのがお好みであれば、十八世紀のバロック時代の後半から古典派にかけての音楽をまず聴くのがおすすめです。あなたはどのような音楽をどれだけ聴いているのかを知りたいですね」
「ウチノ聴クオンガクハナイショダナァ。ウチニハウチノセカイガアッテ、ダレモ知ラナイ。深淵ナルミチノエリアヲダレニモ占領サレタクナイカラ、ジブンダケデ味ワウ」
好みの曲を教えるくらいのことはどうってことはないと思うのだが、他人と共有できる味わいを知らないことに憐みを感じてしまう。
話はこれ以上発展する見込みはないと思い、ぬりかべとの会話に終止符を打とうか悩んでいると、僅差で言葉を挟まれてしまう。
「ナルベク無駄ナノウガキハヤメテ、オジ……、オジサンノ推薦キョクを教エテクレナイカナァ」
あながち従順で控えめでもないらしいことがわかれば、こちらの攻めようもはっきりしてくる。
秀麗たる音楽作品の数々を揃えることは可能なのだ。
嗜好が読めないだけに、海のものとも山のものとも知れないのが返って興奮をそそる。
しびれを切らして、窓越しに目を向けて窓柵に引っかかった蛾の死骸を眺めるぬりかべ。
話が前に進まないのを待ちくたびれてのことか。
「ドウナノカナァ。ハナシヲ聞カセテオクレヨ。セッカチナ、ナマケモノダカラナァ、ウチッテ」
「スカラベという糞を転がす昆虫をご想像ください。彼らも一生懸命に食糧の動物の糞を丸めて、安全な場所へ運んでから食べます。物事には段取りがあり、物質でも出来事でもその本質には深い意味がありますゆえに、焦ってはなりません。それからでも音楽は楽しく聴けますよ」
「フムフム、ソレハタシカニアル。オンガクノセイリツ過程ヤ歴史テキハイケイヲ知ルコトハムダデハナイ」
「読書が洞察力や思考性を高める一助となるように、音楽は人の感情を揺さぶる力のあることはご経験からもおわかりでしょう? それらはプラスの方向に振れるだけではなく、負の感情を招くこともあるのです。楽しくもあれば、悲しくて失望の感情をさえも引き起こします。話の長いのがわたしの悪い癖であるのは自覚しているところでありまして、『違うでしょ』と思うのでしたら、あなたのやり方で掛かってきてください。待てないのでしたら、〝音楽を識る〟という初めの壁にぶち当たっているのです。どうでもよくなって、よだれをダラリとたらして寝ていたいと弱音吐くのが一般的であります」
ぬりかべは自分の邪念を振り払って、落ち着けとばかりにデカい図体で胡坐をかきだして、現状の価値観との隙間を埋めようと思考する。
「ソレデオジサンノオンガク観トヤラハ、ドンナ感ジナノカ教エテクレルカイ?」
ならばひと泡吹かしてやろうと、わたしは自分の音楽への想いを語り始める。
「一言で言うならば、自分の好みに合った心地よい音楽を聴くのが一番良いのです。
また年齢や世代で好みは大きく違ってきますし、個人の差もでてきます。
心理カウンセラーではないので、科学的根拠は示すことはここではできません。
音楽に対し敬虔の心を持って接してきたこの四十数年、クラシック音楽を幅広く聴いてきましたが、若い時ほど斬新な大管弦楽を楽しむ傾向がある。
初めのうちはテンポ感が軽快なものをわたしは好んでいました。
アダージョのもたもたした楽章は聴くに堪えないとは言いませんでしたが、カセットで聴いていた時代だから早送りをして、スケルツォやアレグロの刺激が強い楽章ばかり聴いていたものです。
ところがです。歳をとって実感したことですが、気持ちを落ち着けて行動するようになって、余暇のリラックスしている時でもゆっくりとした音楽を好むようになりましたね。
これがまた心に沁みこんでまいりまして、嫌なことも忘れて格別な世界に浸ることができるのです。
でも、あなたはあなたの好みで聴くべきです。
クラシック音楽で聴いてみると良いのはヨハン・セバスチャン・バッハです。
バロック時代に活躍したドイツの作曲家ですが、彼の音楽をあまり好きではないとか批判を聞くことは不思議とあまり見かけませんね。
当時の鍵盤楽器であるクラヴィーア、今でいうピアノの前身に当たりますが、その教示を兄のヨハン・クリストフから仰ぐことになり、のちに作曲と教会のオルガン奏者、宮廷楽師を続け、生計を立てていくようになります。
とても勤勉実直な性格の人物ですよ。
並々ならぬ情熱を音楽に注ぎ込み、クラヴィーアやオルガンの独奏曲、室内楽曲、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ、無伴奏チェロ組曲、ブランデンブルク協奏曲、管弦楽組曲、また数十曲の教会カンタータ、世俗カンタータ、ロ短調ミサ、マタイ受難曲、ヨハネ受難曲など、作品の数は多数にのぼっています。
バッハの作曲に対する姿勢がうかがえる有名な逸話があるんです。
当時世に知られていたブクステフーデやパッフェルベルなどの著名な作曲家の作品の譜面を兄が所有していたのをずっと欲しいとせがんでいたそうですが、その想いは日に日につのり、鍵のかかった戸棚の格子の隙間から思いのほか容易に取り出すことに成功します。
これを深夜に月の灯を頼りに半年かかってすべて書き写し終え、原譜は気づかれずに戸棚に戻すことができました。
そして、いざ利用しようとした際に運の悪いことに兄に気づかれてしまい、すべて取り上げられてしまったというもの。
大抵、音楽家を目指す志のある者、周りの反対を押し切ってでもならなければ大志を達成できないというものでもありません。
バッハのように初志貫徹の精神を持った人物が作曲家には多いということが言えましょう。
あとは意志堅固なところもあったようですね。
バッハは二回の結婚で子供が多くいましたから、生計を立てなければなりませんでした。
常に条件のよいオルガニストや宮廷楽師の職を転々としていたようです。
作品にも性格が表れていて、二つ以上の旋律を重ね合わせて、かつ独立性を維持しながら調和的に曲を構成する対位法を意識した作曲技法を大成させました。
作品はどれも洗練されていますし、質素で爽やかなイメージがあります。
聴いていて開放感に満たされる思いがします。
彼の作品の中で揺るぎないバッハの作曲スタイルが貫かれ、多くの人々に現代でも愛され続けているわけです。
しかしです。
当時のバッハの音楽は多分に演奏されていましたが、作品そのものへの評価として認められるようなことはなく、バッハの死後しばらくは彼自身も忘れ去られた事実があったのです」
1 主題A① ~クラシック音楽への誘い。〝聴きたい〟は感性の芽生え~ (了)
(2 エピソードB ~苦労を重ね、傑作を残した偉大な音楽家 天界の対話Ⅰ~ へ続く)