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(20-01-05)擬人化された英単語が地球を救う。はあ?【小説】ことだまカンパニー 第二十章 伊勢(1)~(5)

 防犯、防災の両方への用心から、雨戸のある家は雨戸を全て固く閉ざし、商店や事務所はシャッターを下ろしていて、人はもちろん、野良猫一匹街を歩いていない。

 長引く停電で外灯はおろか信号すら消えている。樹木が暴風に翻弄されて起こる枝擦れの音も、路面を激しく叩く雨音のホワイトノイズに塗りつぶされ、他には何も聞こえなかった。

 内宮の神苑を縁取って流れる清流五十鈴川。この川にかかる宇治橋のたもとに神宮をお守りする衛士えじの見張所がある。その見張所の前に杏児が運転する軽自動車がたどり着いた。

 懐中電灯を手に、引き扉を開けて出て来た一人の年配の衛士は、驚いた表情で運転席に近寄った。杏児が窓を開ける。激しい雨音に混じって、衛士のいたわるような声が車内に入って来る。

「救国官の皆さんですね。この嵐の中をよくご無事で……。衛士の神谷と申します。どうぞお入りください」

 杏児は後部座席の万三郎を振り返る。アポフィスの軌道を変えるためにことだまのエネルギーを送り込むなら、一秒でも早くレシプロを始めるべきで、残された時間は多くない。しかし、万三郎が疲れた表情をしているので、せめて濡れた頭や身体を何とかさせたいと思い、杏児は神谷と名乗った衛士の申し出に頷いた。

「事前連絡が入りましたか」

「はい、昼ごろ、通信が途絶する前に、大泉総理の秘書官から電話がありました。それに、二、三時間前に、女性二人を付き添わせた男性の方が来られて、『三人の優れた人たちが来たらよろしく』と頼んで行かれました」

 杏児とユキが怪訝な顔になっているのに対して、思い当たりがある万三郎が思わず噴き出す。見張所の中はわりあいに広かったけれど、神谷以外は誰もおらず、がらんとしている。神谷は懐中電灯を片手にタオルを取って来て、三人に手渡しながら言った。

「きっと大変な思いをしてここまでたどり着かれたと思いますが、停電の上にガスも止まり、熱いお茶ひとつお出しすることもできません」

 杏児はタオルを押し頂き、頭と顔を拭きながら答える。

「お気持ち、感謝します。ですが、今は一刻を争います。もしありましたら、レインコートをお貸しいただけませんか」

「……」

 そのまま神谷が黙りこくってしまったので、三人ともタオルの手を止めて神谷の方を見た。神谷は最初、何か迷っていたようだったが、意を決したように口を開いた。

御正殿ごせいでんにお詣りしたいのですよね」

「はい。そして祈りたいのです。そのために東京から来ました」

「残念ですが、それはできません」

 それまでたった一人、疲れた様子で折りたたみ椅子に腰を下ろしていた万三郎が、神谷の思いがけない答えに顔を上げ、憤然と食って掛かった。

「どうしてですか!」

 その権幕に少し驚いた神谷は、万三郎の方に向き直って申し訳なさそうに言った。

「参道の木々が風で倒されて、道を塞いでいるのです」


 

 言葉を失う万三郎に代わってユキが尋ねる。

「そんなに、ひどい状況なんですか」

 神谷の影が暗がりの中で頷いた。

「神宮司庁にわずかに残っていた職員が御正殿の様子を見に行こうとしたけれど、参道沿いの杉の、中ぐらいの太さのものまで結構倒れているようで、途中で引き返さざるを得なかったと言ってきました」

「そんな……」

大宮司だいぐうじ様のご判断で、世帯主である職員は皆、家族のもとへ帰しましたので、今は、職責の重い人たちと、衛士では私のような老いぼれや、逆に独り者の若い職員がわずかに居残っているのみです。これから雨風がさらに強まって危険なので、帰宅しない職員は司庁舎に集まるよう指示が出ているのですが、私は官邸からのお電話を取った責任上、ここであなた方をお待ちしていました」

 万三郎は茫然とした。ここまで来てこんなことになろうとは。

「では……、どうあっても御正殿への参拝は無理だと」

「私は、昼のテレビで総理の緊急放送を見ました。あなた方がどういう目的でこの嵐の中、ここまで来られたのか、分かっているつもりです。ですが、御正殿の無事を心から案じる若い職員でさえ、様子を見に行くのを断念せざるを得ない状況です。あなた方が無理を押して向かっても、たどり着けないどころか、命の危険があります。どうか、ご理解ください」

 万三郎が立ち上がって神谷に食って掛からんばかりに大きな声を出す。

「そうですか分かりました、なんて言えません! このままだと明日はないんです! 僕ら、行きます!」

「台風の!」

 年老いた衛士は、大声を出して万三郎を遮った。三人がびくりとするくらいの大声だったが、衛士はその後、元のように落ち着いた声になって続けた。

「……台風の威力を、甘く見てはいけませんぞ」

 一瞬、部屋を静寂が包む。すると、屋外で荒れ狂う暴風雨の音が再び四人の耳に入ってきた。空き缶か何かが、風に吹き飛ばされて転がっていく高い音がした。

「お三方はお若いから、伊勢湾台風をご存知ないかもしれませんなあ」

 ユキが答える。

「私は、聞いたことはあります。昭和三十年代に未曽有の人的被害をもたらした台風だというくらいしか存じませんが……」

「そうですか。私はその恐ろしさをこの目で見ておりましてね」

「……」

「当時私はあなた方と同じくらいの歳で、この近くの川沿いに居を構え、妻と三歳の娘、一歳の息子と住んでいました。すでにここで神宮の神様にお仕えしていました。若かったので上司の制止も聞かず、司庁に詰めてお宮をお護りしようと雨風の中奮闘していました。だが、自然の猛威の前に、私や同僚は為す術もありませんでした。それどころか、参道の見回りで、倒れてくる杉の大木の下敷きになって死にかけました。一夜明けて近所の人から知らせが入りました。自宅が流され、私は妻と子供たちを失いました」

「……」

「私一人、ここに残ってあなた方を待っていたのは、あなた方を制止するためです。私がいなければ、あなた方は無理に参拝に向かうと思ったからです。残念ですが、ご参拝は諦めてください」

 万三郎が食い下がった。

「か、神谷さん、僕らは命を惜しんではいません。世界の、地球の危機なんです! 例え死ぬと分かっていても、行かなくてはなりません」

「この馬鹿者ッ!」

 神谷が一喝したので、場がピンと凍りついた。

「あんたが死ぬのは構わんが、天照大神様のおします御正殿の前で死ぬのだけは絶対に許さん。神道では死は最大の穢れなのだ。我々代々の神職が、千三百年以上にわたって日々守り通してきた、穢れなき聖域が神宮なのだ。あんた、自分の狭量な正義感だけで、その聖域を穢して歴史を終わらせるつもりか。日本が滅ぼうとも、大神様の御前に死体を晒すなどということは断じて許されることではない」

 年老いた衛士のあまりの迫力に、一同何も言い返すことはできなかった。暗闇の中、神谷の目だけが、どこかの微かな光を反射してか、キラリと光っている。

 なるほどと万三郎は思った。それぞれの立場の人にそれぞれの思いがある。ことだまの国、日本の中心は伊勢の神宮であると思い立って一方的に押しかけて来た若者に、神宮の大神にお仕えすること半世紀以上の年長者の思いを一蹴して良いはずがなかった。

 万三郎は素直に謝った。

「申し訳ありませんでした。思い上がっていました」

 万三郎に合わせて、杏児もユキも黙って頭を下げる。神谷は、また落ち着いた声色に戻って三人に言った。

「いや、取り乱して申し訳なかった。行くところがないのでしたら、司庁舎へおいでになりませんか」


 目の前の宇治橋は、歩行者用の橋で車は渡れないので、隣の橋まで回り道をして、通用門から司庁へ入るのだが、五十鈴川はすでに氾濫しかかっていた。

 橋を渡り終えたところでヘッドライトに照らし出された軽自動車は、杏児たちが乗っているものと同型だった。路上駐車されていたものだろう。それは横転していた。

 風は高速道路を走っていた時より、さらに強くなっている。現に、助手席の神谷の案内で司庁舎へ車で向かうこの短い道中でも、四人も乗ったこの車が風でグラグラと揺れた。万三郎は先程、見張所の前で空っぽのこの車がひっくり返っていなくてよかったと思った。

 杏児がようやく車を司庁舎の前の駐車スペースに止めた時、万三郎が後部座席から神谷に訴えた。

「神谷さん、御正殿ではなくでも良いですから、少しでも神様に近いところで祈りたいのです。その方がことだまのエネルギーが高いと思うからです」

 神谷は前を向いたまま答える。

「ここはすでに神苑の中です。わずかに近いくらいじゃあ、そう変わらんでしょう」

 万三郎は誠意を込めて衛士に説明する。

「いえ、日本中のほとんどのことだまは、ここ、伊勢へ集結して、ここから宇宙へ放たれます。ひとつひとつのことだまがほんのわずか強くなるだけでも、全体では相当な違いになります。後にも先にも一回きりのこの祈りは、一メートルでも近い方が良いのです」

 神谷は少し考える風だったが、待っていなさいと言い残して、暴風に翻弄されながらよろよろと司庁舎へ入って行った。

 しばらくして、彼は、もう一人、若い衛士に身体を支えてもらいながら出て来た。二人とも黒いレインコートを着ている。万三郎が後部ドアを開けかけると神谷は「そのままで」というジェスチャーをした。万三郎は代わりに窓を開ける。雨風が強いので、若い衛士が大声を出して言った。

「この先に、参集殿という参拝者の休憩所があります。先ほど見回ってきましたが、倒木が多く、そこより先へは行けません。参集殿には能舞台があります。今、故障していてシャッターが下りないのですが、祈りに必要ならそこを使ってください」

「あ、ありがとうございます」

 すると神谷が続けた。

「大宮司様の指示で、私たち職員は全員、明朝まで外出禁止となった。二つ、約束してほしい。参集殿より先へは行かないこと、参集殿での行動は自己責任でということ。守れますか」

 万三郎が即座に答える。

「守ります」

 衛士は大きく一回、深呼吸をした。それから車から一歩後ずさりして、万三郎たちに向かって深く一礼した。

「大神様と共に、日本を、護ってください。よろしく、お願いします」

 驚いた万三郎たちの車に、若い衛士が一歩歩み寄る。

「三人分の雨具と懐中電灯です。そしてこれが参集殿の鍵です」

 万三郎は頭を下げてそれらを受け取る。

 突風が吹いた。車が大きく揺れ、神谷が尻もちをついた。

「神谷さん! 大丈夫ですか」

 若い衛士が駆け寄る。年配の衛士の無事を確認し、助け起こした若い衛士は、万三郎たちの方を向いて大声で言った。

「今夜は私たちも祈ります。明朝、必ずお会いしましょう! どうかご無事で」

「感謝します!」

 神谷に肩を貸して司庁舎へ消える若い衛士の姿が見えなくなると、三人は急いで車内で雨具を着込んで、それぞれ懐中電灯を手に取ると、風の止み間を狙って駆け出して行った。


 参集殿はそれほど遠くはなかったが、向かい風の時には三人固まってしゃがんで飛ばされないように耐えること数回、到着するまで思いのほか時間がかかった。

 三人は懐中電灯で屋内を照らして観察した。建物自体は何百人もの参拝客を収容できるほどの大きさがあった。入ったところから見る限り、白木のような建材が真新しく、開放的で品がある地上二階建ての建物だ。上空から見ると「ロ」の字型に室内空間が取られているようで、真ん中は、雨に濡れているところを見ると屋外パティオになっているようだ。真ん中には、正面入り口と左右の休憩スペースの三方から、壁面いっぱいにとられた掃き出し窓を通して、立派な能舞台が見通せる。能舞台は、正面入り口から見て反対側の棟からせり出す形で、正方形の舞台の真上にだけ屋根がついていた。レシプロの場としての能舞台に興味を引かれた三人にとって幸いなことに、今は能舞台の正面は風下に向いているようで、舞台には雨はほとんど降り込んではいない。これで内宮の神苑にあって、司庁よりいくばくか御正殿に近いのだから、三人にとっては理想的に思われた。

「あの能舞台の上だな」

「ああ」

「ええ」

 三人の意見が一致した。屋内を回り込んで、靴を脱ぎ、左側の棟から舞台へと伸びる廊下をそろそろと歩いて、舞台の真ん中あたりに、万三郎を挟んで並んで座る。

「じゃあ、行くか」

 万三郎は左の杏児、右のユキを順に見やった。

「万三郎……大丈夫か」

 杏児は万三郎に訊いた。暗闇に目が慣れて来ると、万三郎一人が肩で息をしているのが分かったからだ。万三郎は今朝から徐々に弱っているように杏児には思われた。実際万三郎は、羽田に着いてから今に至るまでカラ元気を出しているように杏児には見えた。杏児が運転するピックアップトラックでは、ユキの向こう側の助手席でぐったりしている姿を何度も見た。だが、人類の生死に関わるできごとを前に、少々の熱などで弱音を吐いてはいられないと、本人が体調不良に触れないようにしているのなら、体調不良が分かったところで万三郎に大したことをしてあげられない今の状況で、やみくもに心配を口にしない方が良いと杏児は思っていた。だが、これから非常な体力と精神力を要求される仕事に臨むのだから、その異常な疲れ方に杏児も思わず心配を口に出してしまったのだ。

「ああ、大丈夫だ」

「万三郎……ねえ、本当に大丈夫?」

 ユキに心配かけまいと万三郎が無理に元気を装っていることを杏児はよく分かっていたが、そのユキも、さすがに万三郎の顔色が悪いのに気付いている。

「こんな環境でもセルフ・レシプロできるか、ということだろ? 俺は二人よりも練習不足だけど、まあ、大丈夫だろう」

 そう言って万三郎は答えをはぐらかした。それを心得た杏児は、万三郎に合わせて一度頷く。

「そうか。なら、いい。だけど無理すんなよ」

 万三郎は、笑みを含んだ声で杏児に返す。

「今は無理していい時でしょ」

「まあ、そうだな」

 ユキはまだ心配そうな顔をしていたが、杏児は万三郎から、その向こうのユキに視線を移して畳みかけた。

「それじゃあ、行こう」

 能舞台の屋根に叩きつけられた雨は、雨どいから溢れて滝のように落下していた。三人は、滝の裏側から真っ暗な夜空を透かして見た。そのまま目を閉じる。滝とその音は次第に薄れていき、視点は空をどんどんズームアップしていった。上下前後左右、黒一色に囲まれた。次に、少しずつ明度が上がってきて、違う景色と物音、声が聞こえてきた。


 人類が電気やガスの灯りを手に入れてからせいぜい二百年。それ以前は、松明か燭台でその辺りを照らすのがやっとであった。人類の歴史において、夜には闇が世界の大半を占めてきたのだ。

 生身の人間が棲む場所ではなかったが、ことだまワールドの伊勢神宮近辺も、やはり大半が闇だった。だが、大半であっても、全てではない。気を許せば全てが闇に覆われそうになるところ、かがり火を盛んに焚くことで辛うじてそこに光の領域が確保されているのだった。

 暴風雨が吹き荒れていない点で、ここがリアル・ワールドではないことが分かる。実際、夜空は晴れているように見える。だが快適ではない。生暖かく湿った空気が少なくとも地表近くには沈殿していた。風が、時にやや強く吹き、かがり火を揺らす。その度に光の領域もゆらめいた。

 三人は、その光の領域にしつらえられた三つの椅子に徐々に姿形を現した。それをワーズたちは息を飲んで見ている。彼らワーズは、もう辺りにひしめき合っていた。彼らのどよめきが大きくなる。

「万三郎、いや、救国官万三郎さん。ようこそ、ことだまワールドへ」

 万三郎はすぐ耳元でそう囁いた声の主に驚いて振り向いた。それは、ニューヨークで大活躍した、吊り半ズボンの男の子、【hope】その人であった。

「あっ、【hope】! ニューヨークではよく頑張って……」

 【hope】は、立てた人差し指を唇に当てて、万三郎の続く言葉を遮ると、万三郎にウインクをして、それから大仰に叫んだ。

「おおッ! ようやく救世主が降臨した。おーいみんなァ! 優秀なみどり組ETのお三方が今、伊勢の神宮に到着したぞォ!」

 すると、あたりを埋め尽くした、一万はゆうにいると思われるワーズたちが、ワァーッと一斉に歓声を上げた。

「うおおおーッ! み・ど・り、それ、み・ど・り、あほら、み・ど・り、もいっちょ、み・ど・りッ」

 並み居るワーズたちは、拳を振り上げて、力強くみどり組を連呼している。完全に意識が転送された三人は、深い籐の椅子に座ったまま、思わず顔を見合わせた。

「なんだ、このテンション?」

 三人は状況を把握するのに少し時間がかかる。同じことだまワールドなのに、東京のチンステはもちろん、昨日のニューヨークともまったく違う景色に驚かされる。ワーズたちが集っているここは、弥生時代の一集落のように見える。素朴な白木の高床木造建築物や、竪穴住居が散在する広場に、ワーズたちがひしめいている構図だ。三人が座っているここは彼らの地面より数段高い祭壇のようになっていて、両脇ではかがり火が燃え盛っている。まるで王が民衆の前に姿を現すといった絵だ。もちろん王とは、三人のETのことである。

 杏児が、万三郎のすぐ隣に立っている【hope】に手招きして、顔を寄せたところにそっと耳打ちする。

「なんで、弥生時代みたいなことになってるの?」 

「さあ……。でも、リアル・ワールドにも、江戸村とか明治村とか縄文遺跡公園とか、あるんでしょ? ことだまワールドにも、そういうところがあってもおかしくないと思うけど」

「それが、この弥生集落だということ?」

「僕は東京チンステから来たよそ者だからよく分からないけど、ここ、ことだま伊勢神宮を仕切っている人が決めたコンセプトがこれなんだろうね」


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