掌編小説:花粉症の季節
営業部長室に入室したら、伊藤人事部長がいた。
「あ、伊藤部長と打ち合わせ中でしたらあらためます」
「いや、いいんだ」
私は、机の向こうで椅子から立ちあがっていた浜口部長の目が真っ赤に充血していて鼻の下が赤いのに驚いた。浜口部長はマスクをかけながら自嘲した。
「はは、すまん。どうも花粉症がひどくてね」
「部長、花粉症でしたっけ」
長年この人についてきて、大概の事は知っているつもりだったが、花粉症とは初めて聞く。いぶかしむ私に、浜口はぎこちなく微笑んだ。
「いや、ほら、誰でも急になるものなんだろう、これ」
「浜口さん……」
少し離れて立って、窓際から外を見ていた伊藤部長が小さく呼んだのを無視して、浜口部長は私に訊いた。
「戦略案、できたのか」
「ええ、そのことで呼ばれたのだと思ってここにお持ちしました。金曜の夜、部長と語り合ったことを文字にしただけですが、これ絶対、うまくいきますよ、部長。四月から楽しみですね」
それを聞くと浜口部長は、私に背を向け、「うわあぁぁっほん」と不思議な咳払いをして、マスクをずらし、ティッシュで鼻をかみ、もう一枚で目を押さえた。
「そうか、もうできたのか……。ごくろうさん」
傍らのくずかごにティッシュを捨てながら、浜口部長はもう片方の手で私から書類を受け取った。
「浜口さん……」
伊藤部長が再び呼びかけたので、私は打ち合わせの邪魔をしていると思い、
「では失礼します」
と一礼して、退室しようとドアノブに手をかけた。
「浜口さ……」
「岡田くん!」
伊藤部長を遮るようにして私を呼び止めた浜口部長の声は、裏返っていた。
「はい」
私は浜口部長の机の前に戻った。
「何でしょうか」
「ほら……あの……彩香あやかちゃんはいくつになった?」
「娘ですか? 四月から四年生になります」
「そうか。元気にしてるのか」
「はい。新居になって自分の部屋ができたのではしゃいでいますが、この春から塾でちょっと勉強させます。住宅ローンに加えて塾代までかかって大変になりましたがね、ははは」
笑いながら私は部長がなぜ娘のことを聞くのか怪訝に思った。
「そうだ、ほら、うちがスポンサー企業になってる、メリーランドの社員無料券があるんだ。超人気で混んでるかもしれんが、この春休みに家族サービス、してあげたらどうかな」
浜口部長はそう言って机の引き出しからチケットを五枚ほど取り出して、きょとんとしている私に手渡した。
「……これはどうも」
「浜口さ……」
「うるさいっ! わかってるって」
浜口部長は両手を机にドンと突くと、伊藤部長にかみついた。それから、マスクを外して、こちらに向き直り、血走った目で私を睨みつけながら低い声で言った。
「岡田純也第二営業課長、三月末日付での……解雇を、予告する」
私はチケットを手にしたまま目をまたたいた。
「わが社の液晶パネル事業は苦戦している。営業課は四月から縮小、第一課に統合されることになった。ついては、不本意ながら三月中に人員の整理をせざるを得なくなった」
語尾が濁り、浜口部長はまた後ろを向き、咳払いをして鼻をかんだ。
「部長、それを前から知っておられたのですか」
「いいや、土曜日の臨時会議で知った」
それはそうだろう。部長と二人、熱く酒を酌み交わして、来期こそは一丁やらかしてやろうぜ、と鼻息を荒くしたのは金曜日の夜のことだ。
ぐっと目を見開いたまま無言で立ち尽くす浜口部長に代わって、伊藤がたたみかけるように私に呼びかけた。
「岡田くん、ここはひとつ、こらえて……」
「ここはひとつ、こらえて……だと?」
私はオウム返しに声を尖らせて、一瞬、伊藤の方に向き直ろうとしたが、やめた。そんなことより浜口さんの声を聞きたかった。
「部長! 部長は残留なのですか? 部長の身には何も……」
「営業部傘下は第一課だけになるが、浜口部長は引き続き営業部長として、監督責任を果たしていただかなければならない」
「浜口さん、そうなんですか?」
「……」
目の前に立っている浜口部長がついに答えないのを見届けると、私は口を固く結んで下腹に力を入れた。そうしなければ震えが止まらなかった。広がった鼻孔から滑稽なくらい空気が荒く漏れ出た。
私は左手に握っていた、テーマパークのチケットを、部長の目の高さで、まとめて真っ二つに破り裂いた。呼吸のたびに、「裏切り者」という言葉が、喉仏のあたりで上下した。私は部長から目をそらさずに、四つに、そして八つに、ゆっくりと破っていった。
それから私は部長の机の椅子側に回り込んでいったので、すわと伊藤が身構えた。しかし、部長は足を踏ん張り、前のめりに机に両手をついたまま微動だにしなかった。彼は覚悟していたのかもしれないが、私は傍らのくずかごにチケット片を棄てようとしただけで、彼を殴ろうとまでは考えてなかった、多分。
くずかごを見下ろすと、そこには、丸められた使用済みティッシュが山と積もっていた。
チケット片を捨てた私は、次に、部長の後ろから机に手を伸ばして戦略案を手にした。書類を持つ両手に力を入れかけた。
その時、気づいた。
こちらから見ると、机上にもう一枚乗っていた紙は、解雇予定者リストだった。数人の名前の左に赤いサインペンでチェック印が入っており、それ以外の名前にはまだチェックが入っていなかった。そのペンは部長の机に転がっていた。紙はくしゃくしゃに皺が入り、リストのあちこちで罫線のインクがにじんでいた。
浜口部長の後ろ毛は、無様に跳ね上がっていた。私はその部長の耳元で小さく囁いた。
「部長、それでも金曜の酒は美味かったです。これ、後はよろしくお願いします」
私は、真ん中にひねり跡の入った戦略案を、机の上にそっと戻した。
後ろ手で締めたドアの向こうで、花粉症にかかった部長が、また不思議な咳払いをしていた。
(了)
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