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誰もが「ほんの少しの良心」を抱えて生きている

おそらくほとんどの人は「悪」を忌み嫌っていると思いますが、その一方で「偽善」は同じかそれ以上に嫌われる傾向があります。

某24時間やってるテレビ番組とかが分かりやすい例ですが。
どうも多くの人は「善」でありたいと思いつつ、あからさますぎる(または胡散臭い)善にアレルギーがある。

なんでだろうなあと考えてみるのですが、おそらく「人間がそこまで高潔な存在でないと知っている(あるいは自覚している)から」ではないかと。

要するに、あまりにも崇高すぎる善は、理想的すぎるというか、地に足がついていない。とかく現実味がないので、わざとらしく感じてしまうのではないか。

じゃあ私たちは「悪」を崇拝しているのかというと、もちろんそういうわけでもない。
なら、私たちはどうありたいと思っているのか?

思うに、私たちの多くは善にも悪にも染まっていないが、「ほんの少しの良心」を抱えて生きている。

この「ほんの少し」がどれくらいかというと――

電車で健全なのに優先席に座っていると、時間が経つにつれてじわじわと罪悪感が積み上がってくる感覚

……と言ったら分かりますかね?

なので、他者の良心を動かしたい場合、あまりに崇高な理念を掲げるよりも、誰でも手が届く範囲の貢献を求めるくらいの方が、拒否反応が起こりにくくなるのだと思います。


そもそも、こと善行に関しては、やるべきことを粛々とやる、くらいの感覚が好まれている側面もある。

ビルゲイツさんが自身の財団から億単位のお金を寄付していても、それを「偽善者だ!」と言う人がいないのは、自分が行っていることをわざわざ大々的にアピールしないからでしょう。

とはいえ、それが最適解なのかと言われると微妙なところ。
個人はよくても、慈善団体は「活動の存在を知ってもらう」ことも考慮に入れなければならないですからね。
黙々とやっていても支援者は増えません。

つまるところ、個人の善行は「やるべきことを粛々とやる」ことが理想とされるが、慈善団体はむしろ発信して、活動の認知を広げることが目的の一つになっている。

このギャップが「善と偽善どっちなんだ問題」をややこしくしてしまっているのだと思います。

私たちにできることがあるとすれば、大多数が持つ「ほんの少しの良心」に訴えかけていくことでしょうか。


ちなみに、この「ほんの少しの良心」は創作にも活用できると思います。

主人公は「すべての人を救う!」みたいな崇高な理念を掲げるよりも、「自分の見えている範囲で人が不幸になるのは見たくない」くらいの動機で行動するのが、むしろちょうどいい。

それくらいの良心なら多くの人が持っていますし、理解されやすい感覚だと思います。

思わず応援したくなる主人公を作るなら、彼らの良心と悪心のバランスには気をつけたいところです。

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