![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/153738354/rectangle_large_type_2_ea8ef9e7d87ad7630ddbd63cdc21c6fd.jpeg?width=1200)
誰もが「ほんの少しの良心」を抱えて生きている
おそらくほとんどの人は「悪」を忌み嫌っていると思いますが、その一方で「偽善」は同じかそれ以上に嫌われる傾向があります。
某24時間やってるテレビ番組とかが分かりやすい例ですが。
どうも多くの人は「善」でありたいと思いつつ、あからさますぎる(または胡散臭い)善にアレルギーがある。
なんでだろうなあと考えてみるのですが、おそらく「人間がそこまで高潔な存在でないと知っている(あるいは自覚している)から」ではないかと。
![](https://assets.st-note.com/img/1725882332-aTdGE3y6lKU50IWX9o7fLCHQ.jpg?width=1200)
要するに、あまりにも崇高すぎる善は、理想的すぎるというか、地に足がついていない。とかく現実味がないので、わざとらしく感じてしまうのではないか。
じゃあ私たちは「悪」を崇拝しているのかというと、もちろんそういうわけでもない。
なら、私たちはどうありたいと思っているのか?
思うに、私たちの多くは善にも悪にも染まっていないが、「ほんの少しの良心」を抱えて生きている。
この「ほんの少し」がどれくらいかというと――
電車で健全なのに優先席に座っていると、時間が経つにつれてじわじわと罪悪感が積み上がってくる感覚
……と言ったら分かりますかね?
なので、他者の良心を動かしたい場合、あまりに崇高な理念を掲げるよりも、誰でも手が届く範囲の貢献を求めるくらいの方が、拒否反応が起こりにくくなるのだと思います。
そもそも、こと善行に関しては、やるべきことを粛々とやる、くらいの感覚が好まれている側面もある。
ビルゲイツさんが自身の財団から億単位のお金を寄付していても、それを「偽善者だ!」と言う人がいないのは、自分が行っていることをわざわざ大々的にアピールしないからでしょう。
とはいえ、それが最適解なのかと言われると微妙なところ。
個人はよくても、慈善団体は「活動の存在を知ってもらう」ことも考慮に入れなければならないですからね。
黙々とやっていても支援者は増えません。
つまるところ、個人の善行は「やるべきことを粛々とやる」ことが理想とされるが、慈善団体はむしろ発信して、活動の認知を広げることが目的の一つになっている。
このギャップが「善と偽善どっちなんだ問題」をややこしくしてしまっているのだと思います。
私たちにできることがあるとすれば、大多数が持つ「ほんの少しの良心」に訴えかけていくことでしょうか。
ちなみに、この「ほんの少しの良心」は創作にも活用できると思います。
主人公は「すべての人を救う!」みたいな崇高な理念を掲げるよりも、「自分の見えている範囲で人が不幸になるのは見たくない」くらいの動機で行動するのが、むしろちょうどいい。
それくらいの良心なら多くの人が持っていますし、理解されやすい感覚だと思います。
思わず応援したくなる主人公を作るなら、彼らの良心と悪心のバランスには気をつけたいところです。