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「センスのいい過激さ」が切り開いた新境地『地面師たち』

金!暴力!女!SEX!

サブスクリプションサービスで展開される作品は、往々にして過激な表現を好む。

理解できなくはない。
これがテレビとなると、規制に次ぐ規制に次ぐ規制に次ぐ規制だらけだ。

「誰でも見られる」と言うと聞こえはいいが、裏を返せば「誰からも見られる」ということ。簡単に意見を発信できる現代では、それが足枷になっているのが実情だ。

厳しい規制に苦い思いをした製作者たちからしたら、サブスクリプションサービスの表現の寛容さは垂涎ものだろう。

とはいえ、当たり前の話ではあるが、過激な描写さえ入れれば作品が面白くなるとは限らない。
むしろ不必要に入れると、見る人に下品な印象を抱かせてしまうリスクも高い。

実際、ネット上の番組の中には、テレビでできないことをやろうとして、半ば無理やり過激な方向へ進むものもある。過激な要素はあくまで手段であって、目的ではないはずだ。

さて、Netflixで大人気の『地面師たち』は、先述した過激要素のオンパレードである。
金、暴力、女、SEX……大人の世界のありとあらゆる汚い要素が、最上級の俳優たちによって鮮明に描写されていく。

もともと映画を想定していたが、内容の過激さ故に実現できなかったのも頷ける。凄惨なシーンの中には、思わず目をそらしたくなるようなものもあった。

そんな人を選びそうな作品が、なぜここまで大成功を収めることができたのか?

今作のファンの感想を見ると、先が気になって一気見してしまったという声が多い。全7話とコンパクトに収まり、かつ無駄がなく密度の濃い脚本が成功を支えたのは間違いない。

しかし、私は今作を成功に導いた要素として、過激な要素の扱いの上手さに注目したい。

結論から言えば、今作はどこを切り取っても「画作り」がいい
ハリソンの言葉を借りるなら、どこかフェティッシュで、エクスタシーを感じてしまう作りなのだ。

「動物的な過激さ」の演出として

印象的なシーンがある。
ハリソンが裏切った竹下を自らの足で処刑したシーンだ。

直接的な部分を長時間映したわけではないにせよ、今作でも特にグロテスクで、暴力的なワンシーンである。

目を背けたくなる場面だが、その一方で何か心を引っ張られるような心地にもさせられるのだから不思議だ。
そう感じられる要因はいくつかあると思う。

まず、ハリソンを描く要素としての魅力だ。
この作品では終始、ハリソンは常人の思考回路を持たないわけわかめのあたおか野郎として描かれる。実際、彼の所業はえげつなく、サイコパスというレベルを優に超えている。

主人公に対して語りかける言葉も、本気で言っているのか、嘘を混ぜているのか分からない。結局、我々はハリソンの本質に迫れないまま物語は終わる。

『地面師たち』6話より

しかし、処刑シーンで自ら人間を殺し、ぐちゃぐちゃにしていくハリソンは、どこか満ち足りた、恍惚とした顔をしている。その一瞬の中に、私たちはハリソンの中にある「剥き出しの本物」を垣間見ることができる。
だからこそ、このシーンは印象的なのだ。

もう一つ、件の処刑シーンは「動物としての人間」を演出しているようにも思う。
言うまでもなく、生物は他の生物を殺すことによって生き延びる。人間だってそうだった。原始時代、目の前のライオンを狩らなければ、自分たちが食糧になってしまっていた。

その一方、近代社会は生物元来の生き方を遠ざけようと試みた。
法律を作り、無闇な殺害を犯罪とし、平和のための社会基盤を構築しようとした。
それはある意味、人間が「動物からの脱却」を目指していたとも言える。

かの処刑シーンは、いかにも動物的で、本能に訴えかけるものがある。

処刑が行われたのが沖縄の寂れた廃墟で、周囲には植物が生えているのも印象的だ。

人工物と自然物が交ざりあった場所――これは、過激な暴力によって「人間と動物の線引きが曖昧になっていく感覚」を演出する一助になっているように思えた。

そういったさりげない演出も含めて、今作はとてもシャレている。

哀愁とバックグラウンドの表出として

演出の妙が冴えわたるのは暴力シーンだけではない。セックスシーンにおいても同様である。

例えば、今作で地面師たちのターゲットになった川井菜摘。
寺の住職を担っているが、かつて夫に駆け落ちされた過去を持ち、基本的に寺に引きこもってくらしている。そんな彼女のほぼ唯一の外界との接点が、歌舞伎町のホストなのだ。

なんとも哀愁を感じないだろうか。
住職として真面目に仕事をこなしている傍ら、心にはぽっかりと大きな穴が空いたままの彼女。それを埋めようとして、気づけばホストに多額のお金を注ぎ込んでしまう。

それでも憧れのホストには抱いてもらえず、下っ端との性行為に溺れ、それはそれで気持ちいいのでなんとなく満足してしまっている日々。
そんな彼女を観ていると、なんとも侘びしく、やりきれない思いが心の奥底に溜まっていく。単なる過激なシーンだったら、こんな気持ちにはさせられないだろう。

積洋ハウスの青柳にしてもそうだ。
彼が立ちバックで必死にイチモツを突き入れる姿は、エロいというより切ないのだ。仮に地面師たちに騙されていなかったとしても、同じように感じただろう。

資本主義の荒波にもまれ、がむしゃらに出世街道を突き進んでいる一方、何か決定的に大切なものが欠けている存在。
新しい時代のやり方や価値観についていけなくなった彼が、世界からゆっくりと切り離されていくことに抗おうとする様は、言葉では言い表せないやるせなさを感じてしまう。

今作におけるセックスシーンは、単なるエロさよりも、それによって表出するキャラクターのバックグラウンドを描き出す。
それによって、単なる機械的な存在ではない、確かな人生を持つ人間の説得力にもつながっているのである。

センスと執念が導いた新境地

今作は過激なシーンが多いが、ただ闇雲に行っているわけではない。そこには幾重もの隠喩が込められており、過激なだけで終わらない魅力を解き放っている。

思うに、今作の新しさはそこなのだ。

ストーリー構成、キャスト、フィクションとリアルを場面ごとに切り替える大胆さも確かに素晴らしい。

だが、描かれるエログロの全てを意味のあるものとして描き、細部の演出までこだわり抜いた執念こそが、今作を傑物たらしめているのではないか。

画作りへのこだわりは、今作の監督・脚本の大根仁さんも公言しているが、これは彼自身がNetflixのヘビーユーザーであることが大きいと思う。

各国から極上の映像作品が集まるNetflixを見て、日本も彼らに負けない画作りを、と突き詰めてたことが随所に感じられる。

今作が切り開いた演出の妙を、ぜひ多くの人にも確かめていただきたい。

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