メタバースは単なるバーチャル空間に非ず~『メタバース進化論』感想~
Webで話題の一冊『メタバース進化論――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界』(バーチャル美少女ねむ(著))を読んでの感想文です。
バズワードになりつつある”メタバース”について、いかに自分が上澄みだけしか分かっていなかったのか、いかにメタバースが奥深く、そして可能性に満ちた場所だったのか、まさに開眼必死の一冊でございました。
メタバース=場所ではなく「人」だった
まず最初に大きな衝撃を受けたのは、第4章「アイデンティティのコスプレ」で、人のアイデンティティの解放について深く論じている内容を読んだ時です。「メタバース」=仮想現実、仮想空間、バーチャルリアリティ…みたいなキーワードを連想していた私にとっては最初のカルチャーショックでした。
私自身がIT関連の仕事をしていることもあり、どうしても「メタバース」と聞くと、それらを構成している技術(3Dグラフィック、ユーザインタフェース、デバイス…etc)を先にイメージしていましたが、それらはあくまで器(道具)にしか過ぎず、「メタバース」の上っ面だけを見ていたのだと気付かされました。「なぜ人々はメタバースに集まるのか(そこで暮らすのか?)」という根本的な視点が抜け落ちていたんです。
アメコミ映画『マイティ・ソー:バトルロイヤル』の劇中にも、「アスガルドは場所ではない。アスガルドは民のいる場所のことだ」なんて名台詞がありますが、まさにメタバースも一緒ですね。どんなに高画質で、クールなデザインのバーチャル空間であっても、そこに暮らす”人”がいなければただの箱でしかありません。そして、人々が集まる理由=メタバースの価値は、人のアイデンティティの解放にこそあったのです。デジタルの最新技術うんぬんではなく、メタバースの存在価値を辿ると、”人の自己そのもの”に帰結するという事実に、大いに唸りながら読みました。
現実の物理世界では、年齢、性別、外見、声、出身から学歴…etc 残念ながらたくさんの理不尽やコンプレックスといったものが存在します。それらから魂を解き放ち、あらゆる意味で「なりたい自分」として自由に生きられる場所、それがメタバースだったのです。正直メタバースという言葉について、ここまで深く(人の自己に踏み込むことだと)考えたことはありませんでした。
価値観の多様化による「分人主義」の定着
また、「分人主義」という考え方も目から鱗でした。インターネットの発展により、表現方法や考え方が大きく多様化している現代において、もはや従来の「個人主義」的な考え方はマッチしない、そのとおりだと思います。
私自身も、会社、家庭、友人と接する相手・場所によって顔が違う自覚がありますし、SNSでも同様です。特に私は趣味が多いので、「映画クラスタ用」「プライベート用」「エンジニア用」など複数アカウントを分けて並列に運用しています。まさに「分人主義」です。
物理的な一人の人間が、複数の自己(アイデンティティ)を持つ、これはもう一般的な感覚だと思います。そしてそれら複数のアイデンティティに、異なる姿形(そして声)を与えて具現化することの出来る場所が「メタバース」なのです。点と点が繋がるような感覚でした。こうして考えるとメタバースが今この時代に生まれたのも必然のような気がしてきます。多様化による分人主義の定着が、それらを表現(具現化)する場所・技術を自然と求めたのかもしれませんね。
SF映画を超える!?「ファントムセンス」
バーチャル空間で暮らしたり遊んだりする住民達が、実際には生じていないバーチャル空間上での刺激を物理的に感じる「ファントムセンス(VR感覚)」というものがある…と。ふむふむなるほど…。
そ、そんなことある~!??
これはヤバイです。もう完全にSF映画を超えています。デジタルに適合した人類が獲得した新たな能力(スーパーパワー)と言っても過言ではないと思います。ニュータイプ、コーディネイター、イノベイターその類のものです。
例えば映画『マトリックス』では「仮想現実で受けたダメージは現実世界の物理の体にも反映される」みたいな設定がありますが、それはあくまで脳に刺さったケーブル経由でフィードバックされる機械的な刺激です。
ケーブルも何も刺さっておらず、視覚と聴覚から得られる情報だけで、本来は生じていないはずの触覚や味覚、落下感覚・浮遊感覚を得る(脳が再現する)これはものすごいことですよ。人間って凄い。事実は小説より奇なり、『マトリックス』や『攻殻機動隊』を描いた作者も、実際にメタバースで長時間暮らしたことは無かったはずです。現実が空想を追い越していく瞬間を目撃した様で、とても興奮する内容でございました。
肉体からの解放で浮き彫りになる”コミュニケーション”の本質
よくアニメの悪者とかが、「肉体不要論(精神だけの存在になったほうがより高度な進化だ!)」みたいことを言い出す展開を目にします。『新世紀エヴァンゲリオン』とか『天元突破グレンラガン』とか近いですかね。
ここについても、本著書ではフィクションを超えたアンサーが提示されているように思います。ようは「(物理の)肉体は不要だけど(仮想の)肉体はやっぱ必要よね」ということみたいです。これも大変興味深い事実だと思いました。
メタバースを構成する重要要素の一つに「空間性」がある、というのが本書の前半で説明されていました。それは感覚的にも理解できます。物理的な距離感(空間上の距離感)は、心理的な距離感に少なからず影響しますよね。そして、第4章「アイデンティティのコスプレ」でも書かれていたように、分人主義からなる複数の自己を解放するためにも、やはり「体(アバター)」が必要なんですね。物理・仮想を問わず、アイデンティティの表現(発現)に、姿かたち(アバター)が必要であることがわかります。
となってくると、アニメの悪者が言うような「肉体を捨てて完全に魂だけの存在になるのだ!」みたいな世界になったら、きっと人のコミュニケーションは成り立たないんだろうなぁと思います。自己の表現のために姿・形が必要であり、そして人同士のコミュニケーションにはやはり空間的な距離感・そして体によるスキンシップやボディランゲージが必要なのです。
物理の肉体を解き放って自由になるんだけど、人が人として生きるためにはやっぱ自分を表現するもの(アバター)自体は必要…ってなんだか面白いですよね。最近だと、死後の世界(精神世界)を描いたディズニーのファンタジーアニメ『ソウルフルワールド』なんかも近い話だなと思いました。あの映画でも、死後の魂だけの世界(物理的制約のない世界)でありながら、登場キャラクターたちはやはり人を模したアバターの姿で登場します。人のアイデンティティとアバターの関係性を感じることが出来ますね。
メタバース上での恋愛とバーチャルセックス
メタバース上での恋愛、私はとても良いなと思いました。そもそも、現代における一般的な恋愛のシステム自体がバグだらけだと思ってますので、メタバース上での恋愛によって幸せになる人はきっとたくさんいるんじゃないかと思います。特に、地元で就職して地元で相手を探して…みたいな固定観念がバリバリ染み付いている田舎の結婚観・恋愛観はマジで地獄だと思いますので、そういったことで悩んでいる人には救いになればいいなと思います。
(余談ですが、私自身も仕事や学校や出身とは全く無縁の、SNSで趣味を通じて知り合った女性と結婚しました。知り合いに「地元の人?」「職場の人?」と当たり前のように聞かれてうんざりした思い出。)
ちなみにバーチャル空間上での恋愛といえば、日本のアニメだと『ソードアート・オンライン』『サマーウォーズ』ハリウッド映画だと『レディ・プレイヤーワン』とか色々浮かびますが、どれも物理世界での恋愛が結局セットになっているものが多いですよね。
物理世界でも美少女で、仮想現実でもほぼ物理世界そのまんまの美少女キャラ(しかもたまたま近所に住んでる)だったり。レディプレに至っては仮想現実に熱狂するオタクに冷水をぶっかけるような酷いラストでしたね笑 この辺も、映画より現実が先を行っているなと感じたところです。現実のメタバースの方が、相手の自己をより尊重して大事にコミュニケーションを取られている様子が本書から伺えました。
バーチャルセックスについても、SF映画ではたびたび取り上げられるテーマですが、こちらもあくまで「AI」や「アンドロイド」との恋愛関係やセックスが描かれることが多いような印象があります。仮想現実上で完結する恋愛やセックスのあり方は、映画やアニメでもまだ想像し得なかった世界なのかもしれません。
メタバースは”儲かる”のか?
第6章「経済のコスプレ」も大変興味深い内容でした。というのも、昨今バズワード的に使われる「メタバース」というキーワードは、どれも短絡的なお金の匂いを強く纏っていることが多いからです。
ブロックチェーンだ!NFTだ!Web3だ!という文脈で一緒に出てくることが多い「メタバース」ですが、ここまで読み進める中で、そんなに単純な言葉ではないことがよくわかりました。というか、「ブロックチェーン」も「NFT」も「Web3」も全部同じですね。どれもそう単純なものではありませんが、分かりやすさを優先するあまり本質を損なっている感じがします。
本書を読んで、ビジネスや投資における「メタバース」のあり方にも納得がいったように思います。メタバースはたしかに大きな「チャンス」ではありますが、そう安易に(リスクなく)利益だけ得られるような上手い話でもないと認識しました。
前章のバーチャル空間での恋愛やセックスの話と同じで、より「選択肢が広がる」ものとして理解しています。家庭の都合で地元で就職するしかなかった人が、メタバース上で仕事を得られるかもしれない。物理的な制約でスキルを活かせなかった人が、メタバース上であれば能力を生かして仕事ができるかもしれない(最近流行りのメタバース個展とかまさにこれですよね)
NFTやブロックチェーンの普及により囁かれる「クリエイターエコノミー」との親和性も相まって、むしろ企業側にとってメタバースの普及はデメリットやリスクも大きいと感じます。付加価値の低い企業はリソースをメタバース上の仕事に取られるかもしれませんし、今までBtoCで成り立っていたビジネスモデルは、CtoCに取って代わるかも。いずれにせよ、メタバースの普及により既存のビジネスが大きく影響を受けるのは間違いなさそうです。その時に”勝ち組”になるためにも、バズワードとしての「メタバース」に踊らされず、その本質を理解すること、何よりも自分自身で体験しておくことの重要性を強く感じます。
Symbolコミュニティ×メタバースの実体験(アハ体験)
本当にたまたまなのですが、この本を読む少し前に、ちょうどVRアプリ「cluster」でメタバースデビューをする機会がありました。私が応援しているSymbolブロックチェーンのコミュニティイベントが、メタバース上で開催されたのがきっかけでした。そのイベントをきっかけに、Symbolコミュニティでもメタバース上の活動が加速度的に広がっていったんですが、本書での内容とも大いにリンクする部分があるので最後にふれたいと思います。
本書の第6章「経済のコスプレ」では、「分人経済」「超空間経済」という新しい経済学の観点のもと、今後のメタバース上で生まれるであろう新しい経済のあり方、職業のあり方について書かれていましたが、これらがまさにSymbolコミュニティで今起こっていることそのものでした。読んでいて、点と点が繋がるような気持ちよさと言いますか、アハ体験のような刺激をビシビシと感じながら楽しくページをめくっていきました。
Symbolコミュニティの活動は、まさに「分人経済が人々のクリエイター化を加速する」を地で行ってると思います。Symbolコミュニティには素晴らしいスキルや才能を持ったメンバーがたくさんいますが、基本的にみんな個人で活動されています。バーチャル美少女ねむさんと同じように、昼はみんな普通に会社で働いたり、家庭で過ごしている一般人ですが、Symbolコミュニティ内で集まると、まさにクリエイティブが爆発するようなエネルギーが生まれるのです。
これについては、単なる「Twitterアカウント」の集まりではここまでの創造力は生まれなかっただろうなと、思うのです。もともとVtuberとして活躍されていたでーもん・らぷらすさんを筆頭に、Symbolコミュニティの活動の場がメタバース上に生まれ、そこに個性豊かなアバターを纏ったコミュニティメンバが集まり、「Twitterのフォロワー」という枠を超えた絆やカリスマ(キャラクター)が生まれています。
最近流行っている「メタバース個展」も、走りはSymbolコミュニティだと認識してます。フルオンチェーンNFTをもっと効果的に、楽しく飾るには(活用するには)どうすべきか?という疑問から、色んな人が自由にアイデアを持ち寄り、詳しい人・得意な人がどんどん集まってきて、あっという間にメタバース個展が生まれてしまいました。しかも、他のコミュニティやクリエイターにも横展開しやすいようにマニュアルもすぐに公開されました。すごいことだと思います。
幸いにも、私はこうしてSymbolコミュニティの活動を通じて、メタバースが生み出すクリエイティブなエネルギーの片鱗を味わうことができていたので、本書を読みながらどんどん理解が深まるような感覚を味わうことが出来ました。最初に「メタバースは場所ではなく人だ」みたいな話を書きましたが、クリエイティブも一緒だと思っています。
もともと創作力やモチベーションの高かったSymbolコミュニティのメンバーが、メタバース上で集まり・繋がることで、さらにその力が増幅され、良い成果物が生まれる流れを目の当たりにしました。同じように、今後メタバースで様々な人が集まり、繋がることで、思いもよらぬ価値が創造されるのは間違いないと思います。その転換点、始まりとも言えるタイミングでSymbolコミュニティに参加できたこと、そして本書に出会えたことを、どこか運命的に感じています。
と、達観的な言い方をしましたが、高いところから眺めるより一緒に混ざって遊んだほうが楽しいので、私もどんどん参加していこうと思います。数年後、メタバースとそこで遊ぶ我々がどう進化しているのか、どんな新しい価値が生まれているのか、心の底からワクワクしますね!