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祈りについて...
わたしがカトリック信徒であった頃…昔は「聖務日課」と呼ばれた、今は『教会の祈り』と呼ばれる、詩編を中心とした、1年間、決まった「祈り」の書物があり、そちらに従って「お祈り」をする生活を基本としていました。
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それが、2022年1月にプロテスタントの教会へ入会し、しばらくは、すぐには習慣が捨てられず、『教会の祈り』のWEB版があるので、それを用いて祈っていたのですが…
カトリック信徒でもないのに『教会の祈り』に拘泥する自分に困惑を覚えるようになり、ちょうど、教皇フランシスコが、一般謁見演説にて「識別」について、お話されたものがペトロ文庫から書籍化されていたものですから…
イエズス会士の行っている「識別」という方法を、自らの日常生活にも、もっと本格的に取り入れようと、神さまとの「対話」、その時間を設けるようになりました。
あとは、これもイエズス会士が行っている「祈り」の方法ですが、「霊操」を、霊的同伴者なしにして行えるのか微妙ですが、これを行ってみようと願っています。
わたしは、かつて、イエズス会が運営する「黙想の家」(無原罪聖母修道院)にて、祈りについての基礎的なプログラムは、全て履修したので、残るは、2泊3日の「霊操」など…なのですが、黙想の家で「宿泊」となると料金も発生するので(※日帰り黙想会にて、食事付きで、3,000円です)、これ以上、黙想の家に関わる予定は、今のところありません。
かつて、3世紀頃、エジプトのスケーティスと呼ばれた場所で、砂漠での修行を選んだキリスト者たちは、最初は共同体を作らずに、個人で、祈っていました。やがて、それが「修道院」という、共通の目的を持った人々の「集い」となった訳ですが、わたしも「修道院」以前の、ひとりの祈りに焦がれます。現代社会の日本でならば、社会システムが完備され、治安もよく、ひとりで暮らして、祈りの生活を過ごすことが可能であると、わたしには思えるからです。
これから、イエズス会の作成した「34週の心の旅」というプログラムに従って、わたしは、ひとり、祈りを行いたいと思います。皆さまも、もし、お付き合い頂けるならば幸いです。
「祈り」というマガジンを作成いたします...。
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