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真の宗教(序説)

もしも新宿の紀伊国屋本店や、池袋のジュンク堂書店本店の「宗教」に分類された本棚に『真の宗教』というタイトルの本を見つけたら、あなたならどう思うだろうか?

わたしなら、まずは新々宗教(※戦後に誕生した比較的新しい宗教)の本だと眉唾しながら、おそらくその本は手に取らずに、本棚の前を通り過ぎてしまうと思う。

しかし、それが「アウグスティヌス著作集 第2巻」に収録されているものだと知ったらば、どうだろうか?

わたしが、アウグスティヌスが『真の宗教』というタイトルで文章を書いていると知ったのは、「マニ教」というキーワードにて「Google Scholar」にて検索した論文の中に、偶然にも、森泰男氏という、アウグスティヌス著作集 27巻(倫理論集)の訳出にも加わっておられる方で、アウグスティヌス研究者の一人である方があり、その人物の小論、「アウグスティヌス『真の宗教』における「真」と「信」」を読んだのが「きっかけ」で、そのようなものをアウグスティヌスが書いているのか…と、素人ながらに、知った次第です。以下、その論文を、ダウンロードできるようにしておきます。

そして、上記、小論文から引用しつつ、今回は、アウグスティヌスの『真の宗教』というタイトルの小論があることを紹介をしよう…というのが、主旨になります。
まずは、森秦男氏の論文から、引用させて頂きます。

わたしは先々九州大学哲学会のシンポジウムにおいて発題し、『信の効用』をテキストにしてアウグスティヌスにおける「信」と「知」の関係について考察し、「信仰の理解」(intellcetus fidei)の重要性を、哲学史を視野に入れつつ明らかにしようと努力した。本論文は時計の針を少し戻して、390年頃に著されたと思われる『真の宗教』をテキストにして、アウグスティヌスの「宗教」論について考察し、その哲学的意義を明らかにしたいと考えている

アウグスティヌスの『真の宗教』における「真」と「信」、より引用

アウグスティヌスは390年頃、「愛智」(philosophia)に生きようとしたのではないか。その当時の彼は司祭でもなければ司教でもない。アウグスティヌスはむしろ「聖職者」の仕事を避けようと心がけていたのである。しかしそのことは、「世俗の生活」のなかで学問三昧に生きようとしていたことを意味しないし、逆に恵まれた「閑暇」の中で俗世間から離脱して哲学的・宗教的瞑想にふけることを含意してもいない。むしろアウグスティヌスの「愛智」はどこまでも真理探究の営みではあるが、「敬神」は「愛智」の営みを根底から支えると共に、「愛智」の終極としてその営みを呼び起こし活性化するのである。

アウグスティヌスの『真の宗教』における「真」と「信」、より引用

アウグスティヌスは本書において「真の宗教とは何か」を問題としている。「真の宗教」を語る時、彼は「偽りの宗教」を意識していた。その偽なる宗教とは、具体的には、「マニ教」のことである。マニ教は「真の宗教」「真の愛智」を標榜しているにも拘らず、アウグスティヌスの判断によれば、「偽なる教え」「根拠のない作り話」に他ならないからである。

アウグスティヌスの『真の宗教』における「真」と「信」、より引用

ここで、わたしが「Google Scholar」にて「マニ教」にて検索して、ヒットした理由が、論文の中身を吟味して分かりました。

わたしは、アウグスティヌスのマニ教理解を吟味する前段階として、21世紀において、マニ教とは、どのような宗教と捉えられているのか、2冊の入門書を、その「入り口」としながら、少しづつですが、前に進んでいる最中です。

次回は、アウグスティヌスの著作『真の宗教』に、よりスポットを当てて、迫ってみたいと思います。

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