歴史の裏舞台~保科正之と松江豊寿~▶柴犬好き
破天荒な人道主義
夏は瀬戸内海で海水浴。(捕虜なのに?!と陸軍幹部からお咎めがあったが所長は庇った。)
兵士になる前職の復活ができた。仕立屋,靴屋,ビール販売,理髪店を営む。
ドイツ人捕虜1千人の鳴門市収容所には,新聞の発行,スポーツの自主運営のほか「第九交響曲」の初演も営まれた。
その所長は松江豊寿
旧幕府軍側で辛酸をなめた,旧会津藩士の出自。
ドイツ捕虜への配慮は「彼らも祖国のために戦ったのだから。」という
旧会津藩士たちへのレクイエムなのか。
敢えて陸軍上層部の命令に従わない気骨を備えていたという。
中村敦彦著「仁慈の心 保科正之と松江豊寿 2003年ベストエッセイ集 うらやましい人より」
保科正之の数奇な出自
時代は下り,江戸は2代目将軍・秀忠の異母兄弟として誕生したのが保科正之。嫉妬深い正室を憚り,秀忠は認知しなかった。一方で,密かに録を譲ってくれたのは,武田信玄の次女。そして,その忠実な遺臣・保科正光が育ての親を引き受ける。
正之が育った保科家の長野・高遠には,税率を低くおさえる仁慈の心があったという。
徳川の平和に寄与
後年,正之は次の政策で影ながらパックストクガワーナに寄与する。
・玉川上水開削
・江戸の大火へ救助金
・天守閣の再建を認めず
・殉死の禁止
・人質制度の廃止
会津藩主として
・社倉の設立(飢饉の年無料で米を貸し出す)
・老齢者に米を終生支給
・救急医療制度の発案
・会津家家訓を定める
松江豊寿が人道的に捕虜を遇したわけを,作家中村彰彦は
『保科正之からの仁慈を,明治以降も旧会津藩士が受け継いだためではないか。』と推察している。
「勝たなかった側」の詳細
歴史の裏舞台で,静かにいぶし銀の存在をはなつ。
私は,そちらに魅かれてしまう。それは,「しんどい境遇のなかで,何か芯のある役割を担おうとする佇まい」に,生きていくことの意味を感じるようになったからかもしれません。
なお。出来る人物,保科正之にも弱点・いかんともしがたい人間らしい側面がありました。その詳細は,中村敦彦著「名君の碑・保科正之」に記されています。
写真のバウムクーヘン
は,当時のドイツ人捕虜・菓子職人が日本に伝えたレシピにちなんで。ユーハイムの前身とも言われているそうです。
本年もたくさん本の話ができますように。
横浜読書会へ遊びにいらしてください。