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06 人生は紙飛行機


 サブテーマ :自分らしく生きるために   

 


プロローグ

日向(ひなた)は30代の女性。小柄で優しい顔立ちの彼女は、街の小さなグループホームで介護福祉士として働いている。日向にとって、一つだけ大きな夢があった。それは、拾った猫たちと一緒に、一軒家で静かに暮らすことだった。だが、現実は厳しい。彼女は未だに両親と一緒に暮らしており、家の中にはすでに5匹の猫がいる。

日向が猫たちと一緒に過ごすのは、彼女にとって癒しの時間だった。仕事から疲れて帰ってくると、猫たちはそっと彼女のそばに寄り添い、静かな癒しを与えてくれる。日向は子供のころから数学が苦手で、教科書の数字がまるで踊っているように見えた。いつもクラスの後れを取ってしまい、教師たちの叱責やクラスメートからの冷たい視線が、彼女の心をどれほど傷つけたか、誰も知らない。それでも、年配の人々と過ごす時間だけは彼女に安らぎをもたらし、介護の仕事は日向にとって適ったものだった。

ある日、日向は早番の仕事を終え、グループホームの出口を出た。午後の陽射しが彼女の肩に優しく降り注ぎ、気持ちよく目を細める。家に帰る前に、いつものように恐竜公園へ向かった。そこには彼女が面倒を見ている野良猫たちがいる。恐竜公園はその名の通り、実物大の恐竜のオブジェがあちこちに配置されたユニークな場所だった。日向は、公園に咲く季節の花や、静かに流れる谷川の音が大好きだった。そして何より、ここには彼女の大切な猫たちがいた。

「今日も来てくれたんだね」

日向が猫たちに声をかけると、何匹かの猫が彼女のもとに駆け寄ってきた。まるで久しぶりに再会した友人のように。日向はバッグからキャットフードを取り出し、小さな皿に盛り付ける。猫たちは彼女の手元を見つめ、待ちきれない様子で尻尾を揺らしていた。

「今日はいい天気だね、みんな」

日向がそう言うと、一匹の白い猫が彼女の足元にすり寄ってきた。この猫は「ハナちゃん」と名付けられた日向のお気に入りだ。ハナちゃんはふっくらとした体つきで、いつも甘えん坊のように見える。日向はハナちゃんの頭を優しく撫で、心の中で思った。「いつか、君たちと一緒に暮らせる日が来るといいな…」

しかし、その日向の夢を阻む現実があった。家では、父親が猫を増やすことに反対していたのだ。「もうこれ以上は飼えない」と何度も言われている。母親も、猫の世話に手が回らなくなることを心配していた。日向は、猫たちのために自分の家を持ちたいと願い続けているが、経済的な問題や両親との関係が彼女を縛っていた。

日向は、もう一度猫たちに視線を向けると、決意を新たにした。自分らしく生きるために、そして猫たちとの穏やかな日々を手に入れるために、これから何をすべきか。日向の心には小さな希望が灯り始めていた。

  


2  猫との出会い

日向は早番の仕事を終えると、いつものように恐竜公園へ猫たちに餌をやりに向かった。この公園は谷川に沿って広がっているため周囲を山で囲まれていた。自然豊かなこの場所では、様々な生き物たちが共存していた。春には谷川沿いに咲く桜が、初夏には公園全体を彩るアジサイが見事な景観を作り出す。公園内には実物大の恐竜のオブジェが配置されており、特に首の長い恐竜は夕暮れ時に見ると今にも動き出しそうで、日向はいつも少し不気味に感じていた。

平日は殆ど人のいないこの公園には、たくさんの猫たちが住み着いていた。数年前まではこれほど見かけなかったが、海公園(谷川の出口近くにあり、海に接する)から追われて移動してきた猫たちがここに住み着いたのだ。海公園は人が多く、レジャー客から餌をもらい、猫たちは子猫をたくさん産んだ。しかし、やがて猫たちは急増し、芝生やテニスコートに排泄物を残すようになったことで、猫を嫌う客から苦情が相次ぐようになった。公園の管理者は困り果て、猫への餌やりを禁止し、猫たちを公園から追い出すことにした。

恐竜公園は、猫たちにとって生存が厳しい環境だった。周囲を山に囲まれているため、天敵が多かった。カラス、キツネ、サル、アライグマ、イタチ、毒蛇など、さまざまな危険が潜んでいた。何よりも、最大の天敵は他の猫であった。猫同士の縄張り争いで負傷し、命を落とすことも少なくなかった。家猫が15年ぐらい生きるのに対し、外で暮らす猫は3~4年も経つといつのまにか姿を消した。ここでは、餌を与える人間も少なく、狩りができない猫は生き残れなかった。

日向は海公園で「ハナちゃん」という猫を特に可愛がっていた。ハナちゃんはある日、4匹の子猫を連れて恐竜公園に移動してきた。それ以来、日向は恐竜公園に通い続けている。

公園に到着すると、ヤマジさんが待っていた。ヤマジさんは餌やり仲間で、下の公園で情報交換をしているうちに、親しい友人のような存在になっていた。ヤマジさんは定年まで巨大な製鉄工場で働き、現在はスーパーでパートタイムの仕事をしている。定年を迎える頃に胃がんが見つかり、手術を受けた。初めて下の公園で会ったときは枯れ枝のように痩せて、生気がなかった。しかし、最近では体重も増え、元気そうに見える。ヤマジさんは、「わしが今でも命があるのは猫のおかげよ」とよく言う。

「また誰かさんが猫を捨てたみたいだ。生まれたての子猫が3匹、駐車場のあたりにいるよ。全く、困ったもんだねぇ」

日向が猫たちのところに行くと、3匹の子猫が鳴きながら彼女のもとに集まってきた。その可愛さは言葉では表現しきれない。日向は運命的なものを感じ、「連れて帰りたい!」と心の中で叫んだ。この場所で生き残るためには先住猫たちに受け入れられる必要がある。さもなければ、生存は難しいだろうと日向は思った。せめて一人立ちできるまで保護しなければ、と彼女は決意した。しかし、家にはすでに5匹の先住猫がいた。家猫の世話はほとんど母親がしてくれている。これ以上負担をかけると何を言われるかわからない。日向はとりあえず、毎日子猫たちの世話をしに来ることにした。

子猫のそばには、キャットフードと水を入れる皿が置かれていた。まだ飼い主が気になって毎日来ているようだった。何か特別な事情があったのだろうか?

3日目に子猫たちのところに行くと、カラスがけたたましい声をあげて、「ふう」の上に乗っていた。「ふう」とは子猫につけた名前だった。カラスはふうの口の中にくちばしを突っ込んでいた。カラスは子猫の舌から食べると聞いていたが、まさにその現場に日向は立ち会ってしまった。彼女は悲鳴をあげ、走り寄ってカラスを追い払った。カラスを追い払った後も、心臓の鼓動がなかなか収まらなかった。日向は、動悸する胸を押さえて「これ以上は放っておけない!」と決心を固めた。

日向は3匹の子猫を実家に連れて帰った。

 


 3 猫との一人暮らしでの回想

日向が3匹の子猫を抱えて実家の玄関を開けると、母親がリビングから顔を出した。「日向、帰ったの?」と声をかけたものの、彼女の腕の中にいる小さな生き物たちに気づくと、その表情は驚きに変わった。「ええっ!また増えたの?」と、母親がため息をつく。

その声に反応したのか、奥から父親が現れた。父親の表情はすぐに険しくなり、日向をじっと見つめた。「またつれてきたのか?」と、声を低くして問いかける。

「お父さん、子猫たちを見つけたの。公園に捨てられてて……」日向は弁明しようとするが、父親は話を遮る。

「もうこれ以上は無理だろう。これ以上、猫を増やすなって。お前は一体、猫を何匹飼えば気が済むんだ?」父親の声は怒りに満ちていた。

「でも、この子たちはまだ小さくて、自分で生きていけないの。助けなきゃいけないって思ったの……」日向は必死に訴えた。

「助ける?…日向の気持ちはわかる。しかし現実をみてくれ。猫が増えるたびに、餌代も増える。去勢手術、病気になったときの治療費だってバカにならない。それを全部お前が払うつもりか?」父親は問い詰めるように続けた。

日向は言葉を失った。確かに、猫の世話にかかる費用は相当な負担になっていた。父親の言うことも一理ある。しかし、それでも目の前の小さな命を見捨てることはできなかった。

「お前は将来のことを考えているのか?結婚するかしないかはお前の勝手だが、もし結婚しないなら、自分の老後をどうするつもりなんだ?猫に囲まれて一生過ごすつもりか?」

「それに、実際に世話をしているのはお母さんだ。お前は猫を連れてくるだけで、可愛がるだけだろう?お母さんにこれ以上負担をかけるのはやめろ」父親の言葉に、日向は反論できなかった。

「猫だって、外で自由に生きるのが幸せだろう。去勢をして、家の中に閉じ込めておくなんて、猫にとって本当に幸せなのか?動物だって自然に生きるほうがいいんだ。お前たちがやっていることは偽善だ。人間と一緒だよ、長生きすることが幸せとは限らないんだよ」父親の言葉は続いた。

日向はうつむきながら、父親の言葉を黙って聞いていた。彼女の胸には、子猫たちの温かさが伝わってきた。彼女には、父親の言葉が正しいのかどうか、答えがわからなかった。ただ、目の前の命を守りたいという思いだけが、彼女を突き動かしていた。

父親からの厳しい叱責を受けた日向は、ついに決断をした。実家の近くにある小さなマンションに引っ越すことにしたのだ。前から一人暮らしをしたいという気持ちがあったし、何よりも父親との衝突を避けるためにも、この選択が最善だと思ったのだ。

しかし、いきなり全ての猫を連れて行くのは無理だった。そこで、先住猫のうち3匹をマンションに連れて行くことにした。新しく連れてきた3匹の子猫は当面の間、母親に面倒を見てもらうことにした。母親は少し心配そうだったが、日向の決意を尊重し、しばらくの間ならと了承してくれた。 

新しいマンションでの生活が始まったが、日向の思い描いていた一人暮らしは、現実とは大きく違っていた。仕事は忙しく、帰宅するころにはすでに疲れ果てていた。そこに炊事洗濯、掃除など、すべてを一人でこなさなければならないとなると、まるで手が回らない。日向は、一人暮らしの自由を楽しむどころか、むしろ日々の生活に追われてしまった。

さらに問題は猫たちだった。なみ、という4番目の先住猫は山から拾ってきた猫で、実家での生活に慣れていた。新しい環境に適応できず、始終「ミャーミャー」と泣き続けた。その泣き声が響くたびに、日向の心も不安でいっぱいになった。マンションの壁は薄く、隣の部屋にまでその声が聞こえてしまうほどだった。

シルは、一番目の先住猫で、10年前に波止で死にかけていたところを拾った猫だ。彼はベッドの下に潜り込み、まったく出てこなくなった。食事のときでさえも、ベッドの下から出てくることはなく、その怯えた姿が日向の心を痛めた。新しい環境に戸惑っているのは明らかだった。

唯一、平気そうに見えたのはクロ、シルの妹で二番目の先住猫だった。クロは新しい環境に興味津々で、部屋の中を探索して回った。しかし、彼女の好奇心も次第に薄れていき、やがて広い実家での生活を恋しがるようになった。

隣の住人からの苦情もあり、日向は次第に追い詰められていった。猫たちの鳴き声や騒がしさが、静かなマンションの環境にはそぐわないことが問題になっていた。日向は頭を抱え、どうすればいいのか途方に暮れていた。一人暮らしを始めることが、こんなにも大変なことだとは夢にも思わなかったのだ。

新しいマンションでの一人暮らしが始まってから数週間、日向の心は次第にくじけていった。猫たちの鳴き声が夜通し響き、隣家からの苦情が続く中、日向はベッドに横たわりながら、じんじんと疼く、咬傷跡の残る自分の指をじっと見つめた。リエ(90歳で認知症)さんは、食物を口に含んだまま寝ていた。日向は、彼女の口から含んだ食べ物を、指で掻きだそうとした瞬間、強く噛まれてしまった。彼女の咬合力は強く、指がちぎれるかと思うほどの激痛が走った。昨日噛まれた箇所は赤紫に腫れて疼いた。

「こんな、笑えてくるような大変な仕事をなぜするようになったのか…」

日向は幼少時からの出来事を振り返り始めた。保育園時代のことを思い出す。日向はいつも座り込んでしまい、動かない子供だった。母親が迎えに来ると、保育士が「きょうもひなたちゃん、座りこんで少しも動かなかったんですよ!」と母親に訴えていた。そんな自分を、日向はどこか疎ましく感じていた。

小学校に上がると、担任の先生から注意力が散漫だと叱られることが多くなった。「ちゃんと集中しなさい」「またボーっとしている」「どうして毎回同じことを注意されるの?」と、常に否定的な言葉を投げかけられた。注意散漫であることが原因で、成績も悪く、態度も評価されなかった。それでも日向は絵本や漫画を読むことが好きで、読むだけでなく物語を作って楽しんでいた。しかし、数学だけはまるで頭に入ってこなかった。テストではいつもゼロ点だった。中学に入ると、「一つでもゼロ点を取ると公立高校には進学できない」と担任の先生に言われ、心配した母親が仕事を辞めて数学を教えてくれた。母親の努力の甲斐もあり、日向はなんとか近所の公立高校に進学することができた。

高校時代は日向にとって本当に楽しい時間だった。高校の先生は生徒にあまり干渉しなかった。男女共学で、ストレートに何でも言い合える校風が日向の性格にぴったり合っていた。初めてのびのびとした自分でいられた時期だった。しかし、楽しい学園生活もあっという間に過ぎ去り、日向は進路を選択する時期に差し掛かった。

介護福祉士の専門学校に進学することになったが、それは特に希望していたことではなかった。両親が「日向は優しいから福祉の仕事がいいだろう」と勧めたからだ。両親は日向に看護師になってほしいと思っていたが、ドジが多い日向には向いていないと判断したのだった。専門の授業は難しく、日向は自分には合わないと感じていた。学校が駅近にあり、デパートや本屋、繁華街で遊ぶことを覚え、そちらの方が楽しかった。不良友達と一緒になって悪い遊びも覚えた。学校に行くのが面倒になり退学しようと思ったが、母親が「卒業まで頑張って」と涙ながらに何度も言うので、結局二年のところを三年かけて卒業した。

卒業後、介護施設に就職したが、最初のうちはどこへ行っても失敗ばかりで、叱られることが多かった。「なぜ私はこんなにもドジなのか…」日向は自分を責める日々が続いた。思い余って、都会の心療内科の先生に診断を受けることになった。担当医師よりADHDと診断された。医師は障害者福祉手帳を発行できると言ってくれたが、日向はもう少し頑張ってみることを伝えた。医師は、介護の仕事はリハビリになるので続けた方がいいと言い、「結婚も良い影響をもたらすので、いい人がいるなら結婚するように」とアドバイスをしてくれた。「あなたはこんなに可愛いんだから、きっといい人が見つかるわよ」と微笑んでくれた。女医の言葉が、日向の胸に残った。

ベッドの中で回想にふける日向の指は、今もじんじんと疼いていた。痛みと共に、日向の心には過去の記憶が鮮やかによみがえっていた。



 4 日向の職場

半年ほど経った頃、日向はマンションを引き払い、実家に戻ることになった。母が頻繁に訪ねてくるようになり、日向のやつれた姿を見るたびに心配していた。そしてある日、母はついに強引に日向を実家に連れ戻した。正直、日向はその提案にほっとしたが、その一方で強い挫折感を味わっていた。猫と一緒に一軒家で暮らす夢を抱いていたが、自分には荷が重すぎたのかもしれない、と日向は思った。

日向が働いているのは、小規模なグループホームだった。一階はデイサービスルーム、二階には居宅型の個室があり、主な利用者の半数以上が認知症を抱えていた。この施設はいつも満室で、日々多くの介護を必要とする人々が訪れていた。職員は総勢25名ほど、そのうち現場で直接介護を担当する介護福祉士やヘルパーは約16名で、現場は常に忙しかった。デイサービスやショートステイの受け入れもあり、利用者は途切れることがなかった。特に介護現場は、慢性的な人手不足が深刻な問題となっていた。

若い職員は長続きせず、すぐに辞めてしまうことが多かった。そのため、現場では年配の職員が主力となって働いていた。大半は50代以上で、60歳や70歳の職員も珍しくなかった。施設には40代の利用者もいたが、「利用者が自分より年上の介護士に世話をされている」という状況に、ある種の奇妙さを感じていた。また、勤務シフトは日勤、早番、遅番、夜勤とローテーションで回っていたが、人手不足が続くと夜勤の頻度が増え、特に独身者や年配の職員が夜勤を連続して担当することが多く、非常にきつい勤務となった。

日向はこれまでにさまざまな介護現場を経験してきた。特養ホーム、デイサービス、グループホーム、有料老人ホームなど、転々としながら10年以上を過ごしてきた。最初の頃は、仕事のテンポについていけず、覚えることが多すぎてぎこちなかった。ドジな自分が周りに迷惑をかけることを恐れ、この仕事を辞めようと思ったことが何度もあった。しかし、経験を積むうちに、日向は少しずつ仕事に慣れ、自信を持てるようになった。

日向は現在の職場がこれまでで一番自分に合っていると感じていた。年配の利用者と話すことが嫌いではなく、時に彼らから人生の大切なことを教えられることもあった。また、職場の職員たちは、豊富な人生経験を持ち主で、いろいろな話を聞くのが日向にとって興味深かった。日向は、この仕事が意外にも自分に向いていると感じ始めていた。利用者からの信頼も厚く、職場の仲間からも頼りにされる存在となっていた。それが日向にとって何よりの励みだった。

入所者の北元さんは、ここに来て3年になる。都会で一人暮らしをしていたが、40歳を過ぎた頃に脳梗塞で倒れた。退院後は車椅子生活となり、自立した生活ができなくなって、この施設に入所してきた。頑固で気が短く、人の言うことを素直に聞かない性格だった。先日も担当医の診断に文句をつけて、嫌がられた。その後、車椅子で転倒して脚を骨折してしまった。北元さんのもとには、定期的に3人の若者が見舞いに訪れていた。彼らは訪れると、賑やかに笑い合って、北元さんを連れ出し、一杯やってくることが多かった。

「ワシはこう見えても都会で社長をやってたんや。電気工事の会社でな、結構、羽振りが良かった。あいつらはワシが一から仕事を教えたんや。だから恩義に感じて、見舞いに来るんや。律儀やろ。ここの年寄り達には誰も見舞いに来ないやないか。家族に見捨てられたようなもんや。ワシは結婚しなかったが、彼らに比べればだいぶいい身分やで、ほんまに。」

「現役時代ワシは使える金が沢山にあったんや。家10軒分ぐらい散財したんや。事業が軌道に乗ると、龍神の田舎から都会に出て、頑張って報われたことが嬉しくてね、毎夜飲みに出歩いたよ。女には不自由しなかった。若いもんにも好き放題飲み食いさせた。みんなワシの驕りや。悪いことに、それが習慣になったんやなあ。気が付いたら人工透析を受けるようになって、次には脳が詰まって倒れたんや。いっそあの時死んでいた方が良かったんや。けどなあ、後悔はしてない。もういつ死んでも悔いはないのよ。」

「社長になるぐらいだから、勉強ができたんですね。」

「ワシは勉強できなかった。社長になるのに勉強は関係ないでぇ。行動力やな。それが一番や。」

日向は時間があると北元さんの話をよく聞いてあげた。入所者の話は人生の教訓に富んでいて、自分の人生のあるべき姿を学んでいるように感じた。日向もお酒がすきだった。愛する猫たちに囲まれて、美味しいものをアテにお酒を呑む時間が至高のひと時に思えた。しかし、北元さんの話を聞いてから、お酒を沢山に飲むことは止めようと思った。お酒は、少し、いい気分になるところで愉しむことだと思った。

脱走を繰り返す男には手を焼いていた。介護ホームでは、多くの入居者がホームを終の棲家にしたくないと思っているのか、黙ってホームを出て行く人が少なからずいる。この男性も、普段は皆の前でおとなしく常識的に振る舞っていたため、その異常さに気づくことができなかった。ある日、彼はスプーンを使ってカギを壊し、窓から脱出した。周囲を探しても見つからず、警察に保護を依頼した。家族の家が近かったので訪ねると、自転車置き場のあたりでうずくまっているところを発見した。大事には至らなかった。しかし、家族はこの男性が戻ってきても家に入れることを拒んだ。この老人は家族から完全に見放されていたのだ。

彼は40代半ばまで運転手の仕事をしていたが、ある日突然仕事を辞めてからは一切働かず、家で酒を飲み、ドグロを巻くようになった。そして、時が経つにつれて暴れるようになり、ついには息子にも暴力を振るうようになった。困り果てた家族は警察に相談し、その結果、回りまわって日向のホームに入所することになった。

二度目の脱走はすぐに起こった。今回も警察に保護を依頼し、今度はホームの近くの駅で見つかった。男はホーム内でも暴力を振るうようになり、興奮すると何をするかわからない状態だった。施設長は、岬の山の病院に、彼の受け入れを依頼した。ホームには鎮静剤を使う権限がなく、手に負えなくなった利用者は岬の病院に送られることになっていた。彼はそのまま病院に移送されたが、その後、三週間ほどして病死したと聞かされた。

岬の病院に行くと皆死んでしまうため、日向はまるでホラー小説のように恐ろしく感じていた。それにしても、家族にまで見放されてしまったこの男性は、いったい何が彼をここまで悲惨な状況に追い込んだのか。日向にはどうしても理解できなかった。人の人生は、ほんの些細なことがきっかけで悲惨な方向に転じてしまうものなのかもしれないと、思わずにいられなかった。

日向には、何でも話せる信頼できる同僚がいた。彼女の名前は明日香。人生経験が豊富で、彼女の話を聞いているといつも勇気をもらえた。明日香は日向より少し年下だったが、とても頼りがいがあり、テキパキと仕事をこなす姿は職場でも評価が高かった。

明日香には6歳年下の彼氏と結婚した。彼氏は仕事が長続きしない性格で、嫌になるとすぐに辞めてしまうが、すぐに新しい職を見つけて働き始めるのがいいところだった。こだわりがなく、いつも明るくて優しい性格だった。

結婚して子供ができた後、明日香はローンを組んで家を建てた。夫は勤続年数が足りず、ローンを組むことができなかったため、明日香名義でローンを組んだ。家は山の斜面を造成した新興住宅地に建てられが立派な家だった。明日香は母親と一緒に住んでお金を貯めており、その努力が実を結んだのだ。

明日香の出身は山奥の村で、幼い頃、母親は父親の親友と駆け落ちしていなくなった。それ以来、明日香は厳しい祖母に育てられた。明日香は厳格な祖母のことを「鬼婆」と呼んでいたが、その反面、しっかりとした性格に育った。長閑な田舎で育ったため、町の高校に進学すると校風に馴染めず、級友からいじめられて高校を中退したが、それが明日香の苦労の始まりだった。職を転々としながらも介護の仕事に出会い、経験を積んで介護福祉士の資格を独学で取得した。母親が市内で家を建てていたため、同居することになったが、母親への嫌悪感を抱えながらも、家賃がかからず、お金を貯めるために我慢していたのだという。

日向は明日香の話を聞きながら、自分のことを振り返った。
「…私もこれまで辛い思いをしたけれど、明日香と比べると随分と恵まれている。この違いはどこから来ているのだろう…?」
日向は見た目には普通の生活を送ってきた。高校を卒業し、専門学校に進学して資格を取得し、働き始めた。父親の転勤について行き、品川や湘南の施設でも働き、さまざまな人に出会った。気に入ったお店や場所も見つけ、楽しい思い出をたくさん作ることができた。この「普通」という感覚はどこから来ているのだろう…?

日向は一つだけ確かなことがあると感じた。それは、自分が明日香と代わることはできないということだった。自分は自分の生い立ちの中で生きていくしかないのだ、と日向は思った。

 

 


5  陽太のプロポーズ

フミちゃん事件

恐竜公園のハナちゃんの子供であるフミちゃんがいなくなってから、もう1年が経っていた。日向は半ばあきらめていたが、まだどこかで生きていると信じ、休みのたびにあちこち探し回っていた。今日は陽太も一緒に探してくれている。陽太は日向の職場の同僚で、ボーイフレンドでもあった。

フミはグリーンの目を持ち、体はシルバーというかなり神秘的な猫だった。猫仲間のヤマジさんも特にこの猫を気に入っていた。フミがいなくなったのは、台風が来る前の日のことだった。ヤマジさんはフミのことが心配になり、自分の家に連れて帰った。しかし、ヤマジさんの奥さんは猫が大の苦手で、家の中に入れることができなかった。それで、倉庫の縁の下にフミを入れておいたのだ。ところが、台風が去った後、倉庫を見に行くとフミの姿は消えていた。

それ以来、皆で必死になってフミを探していたが、見つからなかった。ヤマジさんの家から恐竜公園まで5キロ以上もあり、猫の嗅覚がいくら良くても、その距離から一人でたどり着くのは難しいだろう。

しかし、フミは生きていた。この日、日向はフミを見つけ、保護することができたのだ。山の近くにある大きな倉庫の前を、やつれた野良猫が歩いていた。グリーンの目を見て、日向はすぐにそれがフミだとわかった。「フミちゃん!」と叫びながら車から降りると、フミは気づいて日向にすり寄り、小刻みに鳴いてまとわりついた。

「ありがとう、陽太が運転してくれたおかげでフミちゃんを見つけられたわ」

「よかったね。本当に猫を愛してるんだな」

「私にとっては家族だから。私の夢はね、一軒家を建てて猫たちと一緒に暮らすことなの」

「それなら、実現できるじゃないか」

「でも、それがなかなか難しいのよ。家を建てるにはお金がかかるし、介護士の給料じゃ到底無理だわ」

「僕がその夢を叶えさせてあげるよ。僕の給料も合わせれば、きっとやれる」

「えっ…⁈ それって…」 

陽子先生のアドバイス

職場には、70代の星野陽子さんという女性が働いていた。本人によると、ボケ防止のために週に3日だけ介護施設で働いているそうだ。もともと星野さんは奈良公園近くの小学校で教師をしており、定年退職後、この施設の近くに家を建てて一人で住んでいた。その家はハウスメーカーの二階建てで、前庭にはかなり広い菜園があった。星野先生は、季節ごとの野菜を育て、収穫したものを職場の皆に分けてくれる。また、犬を一匹飼っており、まるで自分の子供のように可愛がっていた。

星野さんは、時折職場の気の合う仲間を家に招いてご馳走してくれる。招かれるメンバーは決まっており、日向と陽太もその一人だった。

「さあ、皆さん、遠慮せずにどんどん食べてね」と陽子さんは笑顔で言う。「私はね、一人暮らしだから、いつ死ぬかわからないでしょ。それで、お隣さんに家の鍵を預けているの。新聞がたまっていたら、遠慮なく家に入ってきてってねって」

しばらく料理を楽しんだ後、陽子さんが日向に話しかけた。「日向さんは結婚しないの?いい人がいるんでしょう。わたしはね、50歳近くまで独身だったの。でも、お見合いで銀行員の夫と出会って結婚したの。夫は背が高くて優しい人だったわ」

陽子さんは一息ついて、続けた。「でもね、人生ってわからないものよ。一緒に住み始めて8年目、夫が膵臓ガンだってわかったの。それも、いきなりステージⅣで、3カ月で亡くなったわ。あんなに健康診断を欠かさず、お酒もタバコもやらない人だったのに…」陽子さんは少し悲しそうな表情を見せた。「それでもね、結婚してよかったと思っているの。結婚というものがどういうものか、わかったからね。…もしダメなら、別れたらいいんだし、そのためにも仕事は辞めない方がいいわよ。」

少し間をおいて、陽子さんは話を続けた。「それにね、犬が死んだときも本当に落ち込んだの。毎日涙が止まらなくて…よく言うでしょ、人生をやり直したかったら子犬を飼いなさいって。でもね、自分が先に逝くことを考えると、どうしても飼えなかったの。それで思い出したの、近くに甥がいることをね。その甥に頼んだの。私が先に死んだら、この犬を代わりに飼ってやってって。その代わり、この家と全財産を甥に譲ることにしたのよ」

日向は陽子先生の話を静かに聞いていた。そして、先日、陽太から突然にプロポーズされたことを思い出していた。

 陽太のプロポーズ

日向はこれまでに何度か恋愛を経験してきたが、そのどれもが成就することはなかった。思い返してみると、付き合った男性たちは皆どこかヤンチャで、自由奔放なところがあった。そんな彼らに惹かれる自分もまた、どこか刺激を求めていたのかもしれない。しかし、陽太は今までの日向の恋人たちとはまるで違うタイプだった。彼はいつも穏やかで、日向の話をじっくりと聞いてくれる。優しさと思いやりに溢れたその態度に、日向は次第に心を開いていった。

「夢を実現させてあげる!」陽太のその言葉が、日向の心に響いた。家を建てて、猫たちと一緒に幸せに暮らすこと。それは日向がずっと抱いていた夢だった。しかし、現実の厳しさも日向は知っている。介護士としての給料では到底叶わない夢だと、どこかで諦めかけていた。しかし、陽太がその夢を共有し、実現のために力を貸してくれると言ってくれた。自分の夢を応援し、支えたいと思ってくれる人がいるという事実が、日向にとってどれだけ心強いことか。

「この人となら、一緒に未来を描けるかもしれない」そんな思いが日向の胸に芽生えた。陽太のプロポーズを受ける決心をするのに、それ以上の理由は必要なかった。日向は大きく深呼吸をし、心の中でそっと呟いた。「陽太さん、私の夢、叶えてくれるの?」彼女の心には、今まで感じたことのない安らぎと期待が広がっていた。



 


プロローグ 夢に向かって

日向と陽太は、多くの人から祝福されて結婚した。二人はシンプルな生活を望んでいたため、結婚式はせず、婚姻届を提出するだけにとどめた。しかし、そんな二人を気遣って、社長が新婚旅行として二泊三日の旅行をプレゼントしてくれたのだ。職場の同僚たちもサプライズで集まり、温かい言葉で祝福してくれた。日向はこんなにも多くの人々に支えられていることを改めて実感し、胸が熱くなった。

二人が住んでいる町は地方都市で、都心とは異なり土地が安かった。さらに、現在は金利が低く、35年ローンを利用すれば、無理なく家を建てることができると分かった。夢のマイホームを持つことが、現実的な目標として見えてきたのだ。

ある日、日向と陽太は恐竜公園の外れにある空き家を見つけた。少し前までは高齢の夫婦が住んでいたが、今は空き家になっていた。陽太はその家を指さして提案した。「この家を買って、僕たちでパン屋をやろうよ。猫が出入りできる猫カフェにして、猫好きが集まれる場所にするんだ」と。日向はそのアイデアにすぐに賛同した。猫カフェは、二人にとって夢の合言葉になった。

日向の母はガーデニングが趣味で、二人の新しい家を草木で彩る手助けをしてくれることになった。日向の実家は、草木がそよぎ季節の花が咲く素晴らしく素敵な家だった。お母さんならきっとお店を素晴らしく感じのよい雰囲気にしてくれる。日向と陽太は、お店の開業に向けて計画を練り、日々少しずつ準備を進めていった。

陽太は元々ITプログラミングの専門学校に進学した。しかしハードルが高く、システムエンジニアはあきらめ、学校を卒業するとパン屋で修行をした。パン作りの技術はマスターしたが、この仕事も長続きせず、結局介護の仕事に就いていた。だが、今こそこれまでの経験を活かす時が来たのだと、陽太は思った。過去の挫折をいまこそ日向とネコの幸せのために活かそうと思った。

日向と陽太の生活は、新しい夢に向かって充実していった。猫たちと一緒に過ごす時間が、二人にとって何よりの癒しとなった。猫たちは陽太のことをすぐに受け入れ、彼にまとわりついてくるようになった。陽太もまた、こまめに猫たちの世話をやき、彼らがどれほど心を癒してくれる存在であるかを実感した。

「私たちでしっかり稼いで、猫たちのために頑張ろう」と日向は陽太に誓った。二人はお互いに支え合い、夢に向かって飛び立つ決意を固めた。毎日が新たな発見であり、喜びで満たされていく。パン屋の開店に向けて準備を進めながら、二人は未来に向かって希望を抱いていた。

日向は時々立ち止まり、これまでの人生を振り返ることがあった。失敗や後悔もあったが、今ここにいる自分がいるのは、そのすべてがあったからこそだと感じていた。そして、陽太と共に歩む新しい生活が、これまで以上に幸せで満ち足りたものになることを信じていた。

「陽太さんとなら、きっとどんな困難も乗り越えられる」日向はそう心の中でつぶやいた。新しい家で、猫たちと共に過ごす毎日。二人はその夢を叶えるために、夢に向かって、今、スタートを切ったところだ。

 

 


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