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伊勢金比羅参宮日記(12) 和歌山から舟で四国へ渡る・高松

3月3日(35日目) 和歌山から船で四国へ


 快晴、朝、粟島様(加太淡島神社)に参詣。今日は例祭である。お宮は海辺に築出しており、御造営である。


 4つ半時(午前11時)出帆。水夫3人、舟30石入、乗合27人。この日清和(よく晴れておだやかなこと)にて、稀に見る良い天気であり、海上も穏やかであるが、鳴門近くでは波が荒く、舟は大いに動揺した。


 夜になり、5つ時(午後8時)に撫養(むや)へ到着する。


 この日、私は風邪をひいているところへ、空腹で炎天に照らされ、少し舟に酔ってしまったようで、難渋した。もっとも吐き気は一切なしとは言え、食事は一切出来兼ねる。乗合舟は、唄などにて苦痛はない。渡海というのはこのようなものだ。


 清和で穏やかであるのはとても稀である。だからこそ、その不快さは言ってはならない。また、わずか半日余りの船中であるが、とても退屈であり、とにかく塞ぎ込んでしまい、食事も進まない。


 穏やかな日でこれであるから、風濤(ふうとう:風と大波)の日であったなら、いかに大変か思いしっておくことだ。

 且つ、舟に乗る時は、まず酒を禁じ、食事も余り満腹にならないよう、ほどほどにして、気を気海丹田(臍下1寸半ほどのツボ)に収めて乗ること。また、わらじでも何でも、降りる時の用意に備えておくこと。煙草もあまり良くない。梅干しを20~30個用意しておき、且つ、瓢(ひさご)まで水を入れて用意しておくこと。大小便は乗る前に出しておくこと。


 ここまで運んで来てくれる舟を無理に出発させないこと。船頭に日和見を見極めてもらって大丈夫であるという事でなければ出発してはならない。もしここで風雨であったなら滞留すること。また、大阪から四国までは、乗ってはいけない。なかなか2~3日舟の中ではとても耐えられるものではない。


 大阪からなら、陸地を高砂まで歩いて、高砂から丸亀まで舟に乗ること。そうすれば、播州洋の難所を避けて、安穏である。

 船中で怪我をしてしまったら、そんなことは稀なことではあるが、偶々はえある由、懼る(おそる)べきなり。


 船路は加太から淡路島の南、無島(沼島:ぬしま)の北、鳴門の南を通って行く。海上13里、乗合1人300文で5文酒代として遣わす。

 舟の中で二絶句を得た。

 眠覚蓬窘禀旅愁

 暮烟偏怪到窮陬

 篙師報道鳴門近

 百尺驚涛欲呑舟


 水天一色望無涯

 日暖風軽舟歩遅
 
 初識海中多異類

 波心出没小○○(れいきん) (漢字が出ません。「小れいきん:小さなクジラの意」)


3月4日(36日目) 地蔵寺五百羅漢


 快晴、和風(おだやかな風)、撫養を出発して五百羅漢(地蔵寺:大正4年に500羅漢はほとんど焼失)へ参る。そこへ行く間の阿弥陀村というところに土御門院御陵がある。寂寞(せきばく:ひっそりとして寂しいようす)としている。


 土御門院(つちみかどいん):承久の変で父の後鳥羽院が隠岐へ流されると、御子にあたる土御門院は自ら土佐へ移り、さらに阿波へ移った。板野郡土成町に土御門院の霊を祀った御所神社がある。

 五百羅漢は天下無双(他に並ぶものがない)、700体もあるとのこと。


 ここから裏門へかけ抜けて峠にかかる。30丁の登りであり、この峠は阿讃(阿波と讃岐)の境である。そこから清水というところに出る。そこで祖末な家で苦茶を売っている。一息つけただけであった。

 この辺りでは道をよくよく聞くこと。引田(ひけた:香川県大川郡引田)へ行くにはどう行くかと聞くこと。

 引田は港で良いところである。

 羅漢までは平地であった。そこからは山坂ばかりで、清水から八沢伝いで引田に出る。

 阿州讃州人は、気表強くして、内に信あり。風俗下品、言語は大いに蛮に入る。

 この辺では砂糖を作る。また甘藷(かんしょ:さつまいも)はとても安い。味はあまりよくない。寒暖はだいたい上武(上野国と武蔵国の総称、かつての埼玉県熊谷中部周辺)に同じである。

3月5日(37日目) 高松


 朝5つ時(午前8時)から雨が降って来て、1日中降り続いた。


 引田を出発し、白鳥明神(白鳥神社)を参詣。日本武尊を祭る。鶴の門がある。そこから津田へ向かう。ここはよき処である。津田の取っ付きにある松原はとても綺麗であり、実に稀である。

 そこから厄ヶ峠(現:天野峠あるいは小方峠?)があり、志渡寺(86番志度寺)に出る。この寺は真言宗で能寺である。桃は枯れている、植継のためだ。

 そこから八栗、屋島と進もうと思っていたが、8つ頃(午後2時)になっても雨は止まない。まことに大峠で、宿屋もなく、八栗山(五剣山)を右に、屋島を向こうに見ながら直ちに高松城下に出た。この間の道すじはとてもよい。高低なく大往還(大きな街道)である。

 ご城下は広い。それほど繁華でもないが。古新町砂屋という家に泊まる。夕方になってやっと雨があがった。


 この辺の道のりは一切定まっておらず、とにかく長短がある。尤も1里50丁と言うが、この辺では40丁くらいである。讃州馬はとても良い。乗るべし。1里につき50文くらいから段々である。

 四国八十八ヶ所の巡礼の者の往来がとても多い。また所々に接待物が多く、行く人に施す。その品々を大八車で持ち歩き、空き家あるいは寺において振舞う。酒や食べ物から月代(さかやき)、湯風呂手拭い、萬金丹、はな紙、わらじの類いまで施してくれる。みなりっぱ(道者たちよるなり、道者をヘンロと呼ぶなり)四国巡拝残らず廻って35、6日かかるという。

 この辺、銭がとても少なく、まず通用しないのと同じである。2分より礼あり。便宜が良い。この辺、浜辺であるので魚が安い。

 妻児能執事 双親能自斟

 嚢中物尽外 一時不関心

 夕叩新知戸 朝穿未見林

 嚢中物尽外 一時不関心


 嚢中の光る阿弥陀は
 やや尽きて
 日々に聴き行く
 千手観音


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