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余談・予断・油断

「よだんをゆるさない」の「よだん」は、漢字でどう書くのか?

 「予断」なのか「余談」なのか?

 予断:どう言う結果になるか、前もって判断すること。
 余談:本筋とは無関係な話。

 

  「よだんをゆるさない」は、

  前もって判断が出来ない。情勢が不安定なこと。なのか?

  あるいは、こんな大事な時に本筋とは違う話をするんじゃない!ってことなのか?

ご存知のように、当然正解は前者の、

 「予断を許さない」=前もって判断することができない。情勢が不安定なさまに言う。

 知らない他人にとっては、どっちだろう?って事になりそう。

 「余談を許さない」は、「予断を許さない」の誤記である。

 「油断は許さない」は、ありそうな気もするし、「油断するな、人の命が懸っているので油断は許さない」と言ってもあながち間違いではなさそうな気もするが、「予断」と「油断」は違う。

 油断:たかをくくって、気を許すこと。不注意。

 小学生の頃に、斎藤道三の伝記を読んでいた中に、

 斎藤道三は、僧侶から油売りになり、そこから戦国大名となったと書いてあった。その油売りの時の話で、

 油を売るときに、客の持っている壺の入り口に一文銭を置く。その一文銭は真ん中に小さな四角い穴が空いているのだが、その穴の縁を濡らさずに壺に油を入れると言うことで「一文銭の油売り」と知られていて、少しでもきが緩むと油で濡らしてしまうから、そこで「油断」ということが生まれた。

 と、覚えていた。

 しかし、今いろいろ調べてみても斎藤道三が「一文銭の油売り」だったと言うことは出てくるのだが、「油断」と結びつけているものはない。

 あれ? 自分の記憶はなんだったのだろう?って思う。その文章の挿絵まで覚えているのに。記憶違いなのでしょう。

 油断の語源は、ご存知の通り、比叡山延暦寺根本中堂に灯されている不滅の宝塔の話。油が絶たれることのないよう戒めたことが由来のようだ。

比叡山延暦寺東塔根本中堂

 長く生きてきて面白いことは、そういった記憶違いがわかること。日々「あ〜、そうだったのか」の連続だ。

 子供の頃に「どうして大人はあんなことをやっていたのだろう?」「あんなことをいったのだろう?」と言うことが次々とわかってくることは面白い。

 横溝正史の推理小説を読んでいると、最初に「発端」があり、最後に「大団円」がくる。

 その「大団円」が好きで、その章を読み始める時には「ちょっと待ってよ」と一度トイレを済ませて、寝転がって読んでいた姿勢を正して読み始めた記憶がある。

 人生の中でも、子を持ち親になってわかること、孫を持ってわかること。大切なものを失ってわかること。様々な「そこに立ってみて初めてわかること」と言うものがある。

 そんな人生の大団円の年齢になってきたのかなと思う。そういう意味では歳をとるのは楽しい。

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