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「置かれた場所で咲きなさい」が言いたいことってさ、

特に何か考えていた訳では無いですが、いつも通りネットサーフィンをしてたまたま目に映ったのを思い出したのだろう。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉がふと頭の中に降りてきて、思うところもあったのでその意味を考えてみることにする。

昨年度までお務めされていた上司は、私の我儘に付き合って(本当に感謝しかない)、よく耳を傾けてくれた。
そして、「どうしたい?どうなりたい?」と聞き出して、解決法を明示していただき、対話から一緒に解決していこう、というのが基本的なスタンスだった。

今年度からお務めされている上司も、私の我儘に付き合って(こちらも本当に感謝しかない)、よく耳を傾けてくれている。
そして、「あなたのお話はよく理解した。ただ個人的な我儘だとは思っていない(これは、私はお気遣いして頂いたんだと捉えている)。その問題はあなたが苦心することではない。あなたと仲間の視座が合わずに目的の乖離があるので、あとは任せて欲しい。」というのが、先日お話した中で感じた印象だった。

この2年以上、noteに書いてきた内容はかなり抽象的に表現してきたつもりだが、実際のやりとりもここにある話を同じように話してきたつもりだ。内容については過去のnoteをご参照いただきたい。

前者は、みんなで協力しながら仲良く解決していこうよ、といったようなやり方だった。
性善説が信じられている世界であれば、または相手によっては理解を得られて解決したのかもしれないが、ただこれはいくら上司からの指示であったからと言っても、もとを辿れば私の我儘であってトップダウンと言うには弱い内容だった。「ならこちらの我儘も聞いてくれ」と言われてしまえば全くその通りだろう。
たとえ意見がいくら管理者目線であっても、私情を挟めば難しいことなんて理解していたはずなのに、当時はずっと見落としていたと今になっては思う。

後者は、どちらの意見も聞いて管理者から提案するよ(指示、と表現するほうがニュアンスとしては近い)、といったようなやり方だった。
公平さなんていくら求めたところで、人間同士の関わり合いである以上、曖昧さからはほぼ確実に逃げられないのだから、決定権を持った人間の判断で良い。まず、だから決定権を持たされた人間が必要となる。

私としては特にどちらのやり方に言いたいことも思うこともなく、物事が進むのなら早くやりましょう!と常々思っていた。
…、どうしても上から目線のようになってしまって大変申し訳無いが、話を聞いてもらえるだけで有難いことだし、解決しようとしてくれている時点で感謝しかなく、どちらが良いどちらが悪いなんかも本当に一切思わない。

表題の話に戻って、結局「置かれた場所で咲きなさい」の意味というのは、「我慢してたらそのうち良くなる」でも「努力してたらそのうち上手くなる」でもなく、「巧く立ち回りなさいよ」みたいな話なのかなと考える機会になった。
それは、罰則としてのペナルティなどではなく、課題としてのハンディキャップなんだよ、とも言える。
昨年度までは組織内で協力して解決に向けて動くことが最適解になっていたし、今年度からは上司へ話を持っていきまとめてもらってから従う方法が最適解になる。それぞれの環境下で「咲く」とは、それぞれの立回りの中でどれだけ意見を含ませて決定とさせられるか、ということである。

いまは種を蒔く期間だと思って…、という話も各方面からよく聞かせてくれた。私のような常識ばかり疑って自分自身で訳が分からなくなるような人間に噛みつかれたら、組織ごと機能しなくなるのも目に見えていただろう(ここだけの話、組織ごとぶっ壊してやろうとすら考えていた時期もあったが…。そう、“神は死んだ”のだ)。まだ壊せなくて良かったと思う。

硬い土壌で周りに大木が生えていたり、岩が転がっていても、根っこはそれらを避けて成長していくもの。
置かれた場所で咲くとは言っても、花自身が「私は咲いたら綺麗に咲く花です」とは言わないし、綺麗かどうかは他人が決めることである。
だから、たまには泥臭くやっても良いのかなと思う。

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