真昼のトロイメライ

主よ! 無益なる事物に対しては
我等の眼を霞ましめ、汝の凡ゆる
真理に関しては我等の眼を隈なく
澄ませ給え。 ―キェルケゴール『死に至る病』

生に対しての執着が薄く、死への抵抗が一切無い。幼い頃から今の今まで根源的な欲求を抑圧されてきたように思う。
積極的に生死のどちらにも偏れないまま生まれた惰性で生き続けているのは、おそらく横暴な人間に気付きを与えるためであるように思う。世界にとっての純粋悪は自然と滅びて当然だと思っていて、私が私を蔑ろにするのは純粋悪に迫害されて迎える死が怖くないからなのだろう。

私の身勝手な理由で目に見えない相手を敵に回して戦い続けているのは世界がよりよくなって欲しいからであって、理想郷に自分の居場所を求めており、美を求めることにこそ生への執着を生み出している。いずれ純粋悪が滅んだのちに、最後の正義悪になったとき私は私の為に死ぬのが最も美しいと感じている。
私自身の行動の根源には現状から改革をしようなんて思いは一切無い。ただ、自然が本来あるべき姿に愚かな人間という悪が介入したせいで、均衡が保たれた状態を崩されるのが不快極まりなく、あるべき形を守るために動かずにはいられないのだ。
元々“慎ましく生きる”という標語は、地球に生まれ自然の一部を借りる人間本来の姿によって発生したのではないか。

やがて訪れることのない安寧の理想郷に行けたとした場合に私が自分の為に殉教する瞬間には、世界で残った唯一の穢者であるために望んで死を受け入れられるだけの自信がある。理性と品性を併せ持つ人間になって初めて、自然のなかに慎ましく生きられるものなのだろう。

そういう意味では、自然の翡翠色に輝く木々や絢爛な花々に囲まれながら、自らの腹を裂き鮮血にまみれ醜態を晒す情景に強い憧れを持っている。それが、私の死への欲にあたる。
しかし、動物よりも賢く、それでいて愚かな知性を付けた純粋悪がいる限りは到底叶わぬ願いであろう。私の死に場所、その理想郷を求めるために戦い続けることが、私の生への欲にあたる。

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