自販機
たとえば、見飽きた陳列棚の前で腹を満たせるものを探しているとき。
たとえば、見飽きた陳列棚の前で喉の渇きを潤せるものを探しているとき。
たとえば、見飽きた陳列棚の前で似合う服を探しているとき。
たとえば、見飽きた陳列棚の前で
あのひとが選んでいたからという理由だけで同じものを手に取ったとして、…先の不調が思案される場合には自分が介入するが、しかしそんな場面に遭遇するたびに自分自身の実在的な存在の薄さを感じざるにはいられない。
これはたびたび口にしていた、欲の薄さ、自我の話になる。
具体的な話をひとつ上げると、自販機の前で飲みたいものがなくて、あのひとが好きだと言っていたから、あのひとが飲んでいたから、あのひととの話題にあったから、だから飲んでみるか。ジュースは身体に悪いからたまにだけにしよう。喉の渇きが潤えば何でも良くて、特に飲みたいものもない。選ばされたという行動源に、良くも悪くも、自分はあのひとによって成り立っているんだなぁ…と思うことがままある。たったひとつ飲み物を買うだけで一度立ち止まって考え、思い出している時間の余白には、自分自身の燃えるような温かい嬉しさと、もうその“記憶”に介入出来ないやりきれなさ、そしてどこか冷たさや悲しさのような入り混じった心情を感じざるにはいられない。飲みたいものが無い、なんでもいい、といった“自身の薄さ”に辟易する。悩んでいるお前は誰やねん、勝手にしたらええやん、って感じ。まぁそんなことすらどうでもいいが。
教育の場面ではしばしば、自分を大切にしなさいとよく言う。個性を大事にしなさい、という話であるのは既に周知の事実だろう。では、その個性とは一体何なのか。
奉仕や献身は与える相手がいて初めて成り立つ。しかし、奉仕や献身をする側としては行動自体が自己満足でしかない。対象がひとなのか物なのか、はたまた偶像やなにか、その相手に向けて与えることで初めて自己満足の感情が生まれてくる。自分対“対象”によって生かされている、これは自分の中にある対象が自分自身の一部であるのと同義であって、自分の中にある複数の対象だけで自分自身が成り立っているとも言い換えることが出来る。そんな複数の対象の集合体によって形成されたひとりの人間が、たったひとりのひと、個人や個性といった表現というのは間違いはないのだろうが、それぞれがそれぞれの場所へ帰ってしまえばただの借り物であるが故にそのひとを構成する要素がひとつもなくなってしまうので、そのひとがそのひとである、と呼ぶには脆弱であるように思う。
アーティストや作家など、生み出す側がそのひとをそのひとたらしめている特化した武器(強烈な個性)を持った人間は、そのひとでなければ成立しないが、代替の利く“大衆の中のひとり”である事実には、ひたすら小さな絶望を感じずにはいられない。もちろん好きな芸術家と自分、大きく見て誰かにとってのそのひと、という構図においては、私自身の行動によって、私自身が相手の中に大きく存在する場合に相手は少なからず影響を受けることも考えられる。だからと言って影響力を持ちたいとか、特別な存在になりたいという話では全く無い。どうでもいいという気持ち半分に、大衆の根底にある認められたい承認欲求と呼ばれるものとは明らかに違うが、いつまでも「承認欲求」という枠組みをどこか出ていないような違和感がずーーーっとある。
そして、別に良いけど、と自分自身を放棄する選択肢しか思い当たらないままでいて、その状態で居続けるしかない現在が自分自身を裏切り続けているようで悲しい。
最近読んだ平野啓一郎さんの『私とは何か -「個人」から「分人」へ』という本に、あのひとと接しているときの自分、そのひとと接しているときの自分、それぞれ同じ自分である。そして、特定の誰かといるときに接している自分が好きな自分であるとき、自分の中でその分人の比率が大きくなる、といった内容があった。以前のnoteで「あのひとが見ている自分も、あのひとが見ている自分も全部同じ自分自身。自分にばったり会ったりしてしまいませんように」といった話をしたが、全く同じである。
本の中では対人についてしか言及されていなかったが、孤独でいるときに「自分自身と向き合っている自分」という「分人」も間違いなく存在するわけで、その「孤独の分人」が好きな場合には同じくそのひとの中で比率が大きくなる。このとき、自分自身を相手にしているのも自分自身である。孤独のときにしている行動は、誰にも迷惑をかけずまた干渉もされないので、本当にしたい欲求であるとも言える。
身体に悪いからジュースはたまにだけにしよう、と、大切にしている容れ物が一体誰なのか。反対に、大切にされている頭が誰か、よくわからなくなる。この理論でいくと、頭にある本能的な部分(飲みたい欲求)だけが“自分自身”となるわけで、「飲みたい飲み物がないから頭の中にいるあのひとに選んでもらう」といった構図には、自分自身の無さを感じるのは何ら不思議ではない。さらに言えば、思い出す誰かすらもいなくなったときにはさらに自分自身の影が薄くなるだろう。喉が渇いたときに飲み物さえ飲めれば私はそれだけでいい。断言しておくが、人生に対して投げやりな気持ちなどでは一切ない。間違いなくこれではないといけない、といったこともある。ただ、どうでもいい部分まで決めつけて、それが個性と言えるのか。本来、ひととひとの繋がりにおいては自己満足の範疇でしか決められない、グレーな部分が大部分を占めるはずである。私自身のものは形容しがたい宙ぶらりんな状態というか、それさえ出来ていれば何もかも全てがどうでもいい感覚は、逆に言えばあまりにも削ぎ落とし研ぎ澄まされた、最終地点である。そして、これさえ出来れば、の精度が高くなればなるほどに個性は付随してこないだろうとも思う。この個性の無さは、より「こんなもの誰でもいいだろ」といった思考回路へと直結させてしまっているようにも思う。しかも、この「どうでもいい」という感情は他人から見ればニヒルに構えた、いけ好かないヤツだというレッテルを貼られがちである。なんとも邪魔でしかない感情である。
もう少しわがままでいたほうが生きやすいのだろうが、どうにも上手く興味や執着が湧かないままでいる。
もう1ヶ月も前で“時効”なので言ってしまうが、数年間応援している歌手のライブに先日行った。例の影響があって、前公演の延期を重ねてしまい、行ったライブがたまたまツアー初日となった。
1曲目「いつも片想いみたいな気持ちだったよ」
2曲目「ひとりで泣いたりしないでね」
3曲目「ぬけがらみたいな夏の日 まるであたしいないみたい」
人情溢れる方が組んだセットリストに、年甲斐もなく十数年ぶりに嗚咽しながら泣いてしまった。誰よりも楽しみにしていたライブが延長になり、いま目の前で歌っている彼女のほうがライブを出来ない期間辛かっただろうに、寄り添って、あたしだけが想っているよと歌っていて。生産する側にしか価値が無いと先述したが、与えられて溢れた部分に関してはそのひとたらしめている部分であって、音楽を聴いて溢れた涙に初めて人間でよかったなと思えた瞬間を生きられたというか。
そんなふうに何かを与えられて、感情を揺さぶられて“感動して涙を生産できた”瞬間を体感出来てこそが、最後の人間の価値で、理性ある人間が人間として生きられる最後の希望であるように思う。
特に話のオチもないが、なんかしら感じてもらえれば嬉しく思う。あなたはあなただけの意志でそれを選びましたか?私は今日も、あのときのあなたにも、いまのあなたにも、未来のあなたにも与えながら生活をしています。