自己の発生と認識の考論
私は私の人生に対しての責任をあまりに重く捉えていたのかもしれない。過剰なほどに自分自身を意識していないと、自分自身を見失ってしまいそうな感覚がいつもあった。世間的にいえば自意識過剰な状態と言えるだろう。
人間関係に焦点を当てて話を進めてみたいと思う。
私には友達と呼ばせてもらう相手がいると私自身は思っている。しかしそこには、信頼出来る相手も顔馴染みも会っただけという関係も垣根は比較的薄いと感じている。仲が良いや悪いも正直なところあまりわからなければ、そのさきの恋愛感情に関しても本当にわからない。気を許せたひとを許せる。好きになった人が好き。いつもどこか宙を見続けて歩いてきてしまったように思う。
というのも、そもそも積極的に人間関係を続けたい性格でもなかったために、語弊を恐れずに言うと人並みの関係を構築してこなかったせいで、みなが笑いみなが仲良くみなが平和に暮らす『絵に描いたまあるい地球』というものをまるで実在するかのように生きてきてしまったようで、自分が見つめてきた宙との狭間にあるリアルを全く理解できていない。
いつも理想だけを見たせいで、いつの間にか理想が高くなっていて、現実とのギャップを埋められなくなっている。私が「いやだ」や「そんなもの」と退け続けてきたそのすべてが、統合に必要な材料であったと今更ながら痛感している。
しかし時間はいつも一方通行でしかない。太陽に灼けたコンクリートの上を、生傷が出来た足で真っ赤な足跡をつけながら歩いている。理想郷に住む自分が、現実世界で苦しむ自分を指さして嘲笑っているような感覚にはこの先も苦しめられるだろう。
自意識過剰な状態について話そうと思う。
セルフイメージは、客観的に見た自分自身の印象でしかなく、主観にある自分自身の理想像であって、もし最初に感じるものがネガティブな感情であるのならばギャップに落胆している状態であると言える。
事実、意識に上がって初めてそのひとの欲や願望の根源が潜んでいるはずだ。たとえ存在していても意識になければまったく無いに等しい。
専門的な性格診断で自分の傾向を掴もうともしてみた。
しかしやってみると言語化された傾向に固執してしまうばかりでどこか中毒性があり、悪く作用しているようにも感じている。
欲や願望を知ろうとして自己分析をしてみるのは面白いものであるが、傾倒してしまうあまりに雁字搦めになってしまうと、よりそのひと自身のコンプレックスを意識させる方向に行く。
邯鄲夢で話したように、意識しないように意識することでより強く刻まれるものなのだろう。他人への悪口や羨望からもコンプレックスがよく見えることがある。同じことを言うが、興味がなければ、そこには何も無い。
私に関することで唯一思うことといえば、非効率で価値のないことをしている時間を嫌う性質がある。さらには、ここに関して怠惰な人間を見ると思わず非難をしてしまうことすらある。
主張としては、基本的に挙動ひとつひとつに意識を向けられない人間はあまり何も考えていないんだろうと思っていて、考えないひとはそこで終わりだけど、考え続けられる人間はどんなにレベルが低かろうとも加速度的に成長するものだと思っている。生物学上の動物としてのヒトから、人間として生きられるひとつの手段だろう。
私の理想はどこから来るのか。
理想像に対してああしたいこうしたいという感情があって、しかもそれはこうでなければならないというある種どこか強要的な要素も孕んでいる。精神衛生上あまりよくなく鬱になりやすい思考なので寛容でいるように気をつけている。
せっかく手を付けるならば妥協はしたくなくて、ここまで出来るだろうの打算がいつも高い。ここも理想と現実とのギャップを感じる場面である。自惚れに思われるかもしれないが、どちらかというと自分自身の躾だと思っている。
この動物から切り離した人間という生き物としてあるべき像として、変な表現かもしれないが"だれか"の一例として"自分を含めた人間"を見ているところがある。そういう意味で自分は誰か、人間は一体何なのかを理解したいといつも思っている。
性善説をいつまでも信じてしまっているようで苦しんでいて、現実に住む人間をいつまでも嫌いだが、人間にしか出来ない高度な思考に触れるとやっぱり良いなと思う。それこそが自分の思う人間の理想像であるように感じている。
たとえば、目の前にいるひとがなにかに没頭しているとする。その没頭している物事と、物事に没頭している人間の関係性については興味があるが、そのひとがそのひとでなければならない理由にはならない。個人に対して興味を持てない理由であるように思う。
結果、欲も羨望もあまりない「自分が」興味を持てるものを探しているだけのようで落胆することが多い。心はいつも暇である。
なにかに没頭している人間を見ると、どんなふうにそんな夢中になれるんだろうかと思う。私は私自身のことをどちらかというと好きだけど、おそらく自分がもうひとりいて目の前に現れたとしたらとことん好きになるか、殺したくなるほど嫌いになるかの二極になると思う。
少し話を展開すると、誰か同じひとひとりが100人の世界だとどんな町並みになるのだろうと考え耽ることがある。ミリ単位で建造物が並んでいるんだろうか。一面花畑だろうか。荒廃の中に幸せそうな笑みを浮かべて過ごすんだろうか。そのひとらしさを慮る方法としてたまに用いている。
自我の再構築として、片っ端から知識を入れたこともある。しかし、頭でっかちになるだけで、現実世界の説明として書かれた哲学なんかが全く現実とはかけ離れたもので、勉強するほど馬鹿を見る典型的な体験であった。
現実世界を理解しようとキレながら勉強していたにも関わらず、これにはさすがに哲学にすらもキレ散らかした。
この部分の統合にはまだしばらく考えなければ解決されないように思う。
よく言う「誰かが見ているかもしれないから」を理由に物事に対する態度を変える場面がある。
所謂世間の目や社会的体裁と称されるものは、自分を監視する自分自身であって、「誰かが」ではなく「自分が」という話であるように思う。
法律、規則、マナー、そして個人的なモラル。強制力のないモラルにすら敷かれたレールの上にいる感覚を持っている時点で、自分を操る自分自身のような感覚に陥っているのだろう。きっと、表面的にはとっつきにくいとか、わかりにくい、秘密主義に思われてしまうだろう。
自我の強いひとといるとなんでもやってあげられるから気に入られがちで、施すこと自体には喜びを感じられるが、搾取されるのは嫌だなと思う。『わるいにんげんはいないよ』の標語だけがいつまでも残り続けている。
悪意なく要求してくる人間とはとても過ごしやすく、対人関係は原始的な欲求しかない幼児と過ごすのが最も心地よい。
死にも生にも欲がない。しかし人間の行く先はいつも死である。だからどうした、どうしたいというのも全くない。
人間とは不思議な生き物である。人間が大衆の中から個人として抜きん出られる境界線はどこにあるんだろうか。そんなことを考えていた。
何か文章を描いたり、絵を書いたり、それで言うと普段あなたの口から出ている言葉もそうで、いつも感化されたものに対しての二次創作でしかない。「私の意見です」と言えるものは一体どこにあるんだろうか。「借り物競走をしている私」を私が操縦しているんだとしたら、それぞれの場所に帰った戻ったときに私には何が残るんだろうか。
あるときには、死について漠然と考えたことがある。
注釈として書き記させて頂くが、決して具体的な死の方法ではない。死という概念について考えていた。
死は、死んだ人間からは一切の何も生まれなくなることに悲しみを感じるんだろう。死を漠然と怖いものと感じるのもきっと、自分自身からもう何も生まれなくなるからなのだろうと思う。現世に生きる者が亡くなられた方の死に向き合う、折り合いをつける儀式はまるで死んだ人間のためにあるように思われがちだろうが、きっと生きた人間の為にあるんだと思う。
とにかく、死が何かを理解しようとするほどに、具体的な死は遠ざかっていきました。
遙か先に意識を置くことは、自分自身を意識する状態から離れられる方法なのだろうと思う。
自我がなくなると、ただ何も感じず死を待つだけの自然物と成り果てるのだろうが、現状は普通に腹は減るし眠くなるのでどこかに自我はあるのだろう。
いざ死んでしまう瞬間には少しは悔しいと思うだろうが強く生きていたいと思うものでもないし、別にわざわざ死にたいと思うほどのものでも無いように感じている。
あーあ、といった表現が正確だと思う。
意識のフィルターというのはかなり厄介である。先入観はいつも、物事や現象に無意識的な淘汰を発生させてしまう。現象をよりフラットな状態のままの現象を見るのは本当に難しい。
虚無的な感覚というのは、きっとこの先入観のせいで、どうせこんなものだろうなんて考えがよぎった瞬間には既に手遅れである。どれも抽象化してしまえば同じ共通点があるように、そこに慣れて飽きを感じているのであれば、詳細を知ろうとすれば積極的に健全なギャンブルに飛び込めるようになるのだろう。
決して、なにが、という話ではないですが。
生まれた感情に対してはいつも最前線でいたいというか、主人公でいたいなと思います。
物事を言葉にした時点で既に他人のフィルタを通っています。芸術のレビューを見るのも別に構わない。誰かの言葉を借りるのも本人が良いのなら良い。受動的な態度でいても良いと思う。
それでも、体験した現象に対して最初に感じた感情自体は個人の価値として個人の存在を証明するものであるから大切にしてやって欲しい。
しかし、第一人者として発生した感情が言葉や、音楽や、芸術に昇華されるが、そこにはいつも語弊がある。
その上で人間関係を続けるのは奇跡と言えるほど脆いバランス感覚だと思う。
それでも各々が各々自身を理解し合うには共通言語にするしかない。お互いに理解するためには歩み寄って、揃って何も発さずに同じものを見続ける。
それこそが共通言語として成り立つ会話になることもあるように思う。