人間の存在のキモさについて


全人類を敵にまわしてしまいそうな表題で大変恐縮ですが、「酔っ払いがまたなんか言ってらあ」と簡単に流し読みしてもらえるとこちらとしても助かります。特に重要なことは書いてありませんので。

それでは、

半年ほど前にチラッと見せたこちらのポストに関してです。


結局、面倒になってポストツリーにすることなく、かといって深く考え直すこともなく勝手に結論付けて勝手に落ち着いていました。

そして、ずーーっと頭の片隅にいた感覚はおよそ半年間、いつまでも変わらず違和感として在り続けたので、“この違和感(を違和感として察知する感覚)こそ私自身なんだ”と着地できたように思います。

noteを頻繁に更新しては毒を吐かないと保っていられなかった2年前。この時期に書かれたnoteは我ながら“他人”のような凄みを感じます。死に際こそエネルギッシュになるのは生きていたいからなのかなーなんて、ストレスが解消された今では達観して見ていられる。今ではおそらく忘れてしまっている感情もあると思うので、辛い人間の気持ちは辛かった人間にしか本当に理解できないのだなと思います。人前で涙を流して「もう疲れた」なんて誰だって言いたくないでしょう。味わったことのない人間にとっては情けないとも思われるだろうし、理解しようと思う人間はどうしたって“想像”することしかできない。つまりはそういうことなんだろうと思います。

反対に楽しかったことでも思い出してみましょうか。あなたは、誰とどこで何をしている時間が楽しかったですか?一番に思い出すのはどんな状況ですか?

閑話休題。

去年の誕生日に書いた27という記事がありますが、読み返してみるとなんだか当時の自分に全部書かれてしまったなという感想が最初に出てきてしまいました。過去の自分はとっくに他人だという感覚はここから来ているのかもしれません。

最近、以前付き合っていたひとと行った場所を思い出してひとりで行きました。当たり前だけど私もあの子もその場所にはいませんでした。


平野啓一郎さんの書かれた「分人」の新書を読んで書いたnoteもあった気がしますが、酔っ払っていて何書いたか思い出せないので色々感じ取ってください。あわよくば探して読んでみてください。すみません。
そのnoteに書いた内容としては、「思い出のある場所に行くと、そのときの楽しんでいる自分自身に会ってしまいそうで行けなくなってしまった場所」と表現した気がします。それは今も変わらずで…、たとえ老朽化を理由に取り壊されたとしても、星の王子さまミュージアムこそ“もう行けなくなった場所”の記憶として私の中在り続けるのだろうと思います。寂しげな笑顔と「あんまり良い思い出がないからさ、更新したいんだよね(笑)」という言葉と共に、ね。
そういえば、星の王子さまミュージアムに初めて行ったときの隣にはまた違う誰かが居たっけななんて思いながら、そんな状況に臨場感を持ってこんなセットがあったっけ?当時のことを忘れてしまっただけなのかな?なんて鮮明に思い直した記憶を得られたのもその人を経て確かなんだとも思います。
これがもう実際に取り壊されて“物理的に解決されない状況”になってしまったんだと思うと、このひととの思い出も凍った記憶のままたまに“解凍しては冷凍するだけ”の“私の時間”を過ごすだけなのだなと思うのです。そんな記憶を塗り替えしてくれた“私が好きだったひととの臨場感のある記憶”ですらも、これからは美味しいところを解凍して、いずれは冷凍焼けしては綺麗な形だけを保ったスカスカな記憶になってしまうのだなと思いながら、手元に残った美しい造形を私だけのものとして愛していこうとも思うのです。
もちろん相手にとっても、塗り替えしたい記憶があったと話す時点で色々と察してしまうのも、“あなたが感じ取れるのを察せる私の違和感”が成せる領域なのだと思います。考えても分からないことに関しては推測だけを盾に考え込まない方がよろしいのでしょうね。本当のことはその当人にしかわからないことなのですから。

そんな私の、私だけが持つ記憶というものは当然のように私だけのもので。もちろんその場に相手がいれば各々だけが持つ記憶があって…。
ローファーの踵で桜の花びらを踏み殺した学生時代、あいつの顔を思って枕を殴った日、お酒を飲んだことを忘れたくてさらに酒をあおった日、あられもない姿の相手に憎しみを込めて睨まれた日、喜んだ顔、それから昨日、今日、。
人類規模、世界規模から見ればおそらく何の影響も及ぼさない些細な出来事なのに確かに存在する“私だけの世界”が広がってはやがて消えていく居心地の悪さがたまらない。しかもこの“個人の世界”は、大衆の人数分だけ存在するという気持ち悪さも備えていて、雑然とした環境に耐えていかなければならないのかと思うし、大袈裟かもしれないが他人の話を聞いているときは決して混ざり合わない思考を共有する気持ち悪さを重圧や責務として感じる(他人の話を聞きたくないという意味ではなく、誰かに語れるだけの他人の世界が存在する気持ち悪さが主題)。
興味のままに勉強をしていた頃は心理学や哲学に傾倒していただけに、パターンや分類別、またはたったひとつの答えが用意されていたのになんてこんなにもカオスなんだろうと思う。
興味関心で言えば、大衆としての人間は対象となるのに、自分を含めてこと個人が対象になると嫌悪感を覚える理由がなんとなく見えてきた気がする。
人類の叡智が、文明が、もしくは身勝手なワガママが、なんていくらでもツッコミどころはあると思う。比較的、嫉妬に狂った、隣の芝は青い、こんな言葉もある。みんなひとりだったらいいのに。

人間の存在のキモさについて

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