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「乾いた土の音」 短編

土の匂いが鼻先を刺し、重たい風が畑を這っていた。畑の端にしゃがみ込んで、僕は手のひらで小さな土の塊を握りしめた。それはまるで、冷たくて湿った心臓をつかんでいるようだった。昨夜の雨の名残は、土に染み込んで柔らかさを帯びているが、まだ芯は固い。畝の隙間に積もった枯葉が、くしゃりとくずれる音を立てた。 空には、薄いベールのような灰色の雲がたなびいている。雲間から漏れる陽の光は、ぼやけた水彩画のように淡く、くぐもっていた。隣の畝では、青々とした小さな芽が一列に並び、未熟な手を空に差

    • 「麦わら帽子の影」

      草むらの匂いが、昼過ぎの空気に重く滲んでいた。小川の近く、膝上まである雑草をかき分けて、悠太はゆっくりと歩を進める。腰には使い込まれた虫取り網、そして汗で濡れたシャツの襟元からは少しばかり泥の匂いがする。 風はほとんど吹いていなかった。麦わら帽子のツバを抑えながら、悠太は背の高い茂みの間から空を見上げた。青一色の空。けれど、そこに揺れる細かな影がひとつ。悠太は一瞬息を呑み、足を止めた。 カナブンだった。羽音がかすかに聞こえる距離まで、悠太は静かに近づいていく。緑色の光沢を

      • 通勤の風景

        朝の通勤ラッシュは、まるで一つの大きな機械のようだった。人々は無言で列を作り、電車の中ではスマホの画面が青白く光る。窓の外は通り過ぎる景色の連続、動きの中で視線がさまよう。 ホームでの待ち時間、周囲の喧騒が遠く感じられる。雑踏の中で一瞬の孤独が訪れ、まるで自分だけが別の世界にいるかのよう。デスクに着くと、パソコンの画面に向かい、数字が飛び交う。しかし、心の中はどこか浮ついている。 帰り道、街の灯りがともり、薄暗い空気に包まれる。駅のベンチに座り、手に持ったラブレターを思い

        • 失われた森の物語 短編

          ある夏の午後、私は古びた町の外れに広がる森へと足を運んだ。町の喧騒を離れ、静寂に包まれた森に入ると、まるで別世界に来たかのような気がした。緑の葉が陽光を受けてきらめき、虫の音が静かに響いていた。 「こんなところに来るのは久しぶりだ」と、私は自分に呟いた。子供の頃、友達と遊んだ日々が心の中によみがえってくる。無邪気に森の秘密を探し回ったあの頃を思い出した。 歩を進めると、次第に空気が重くなり、湿気が肌にまとわりつく。木々の間を進むと、ひっそりとした場所に一軒の小屋が現れた。

          いつもの喫茶店 短編

          剛志は、静かな街にある大学に通う大学生だった。毎朝、目覚まし時計が鳴ると、ベッドから抜け出してトーストを焼き、コーヒーを淹れる。朝食を取りながらテレビをつけ、特に興味もないニュースを眺める日々だった。 ある日、通学の途中で小さな喫茶店を見つけた。普段は通り過ぎる場所だが、その日はふと入ってみることにした。店内にはほのかなコーヒーの香りと、古びたインテリアが広がっていた。カウンターには、年配の男性が一人、無言で新聞を広げている。 剛志は、窓際の席に座り、メニューを眺めた。少

          いつもの喫茶店 短編

          風の中の存在 短編

          春の訪れとともに、桜の花が舞い散る頃、静かな村に一人の青年、ユウが住んでいた。ユウはどちらかといえば、男とも女とも言えぬ中性的な存在で、周囲の人々は彼を「美しい者」として扱った。彼の容貌は、性別を超えた何か特別なものを持っていた。 村の人々は、ユウの存在を一種の神秘として敬いながらも、同時に少しばかりの戸惑いを抱いていた。女たちは彼を羨み、男たちは嫉妬した。ユウは、どちらの性でもなく、ただ自然の一部として、風のようにその場に存在していた。 ある日、ユウは村の外れにある小さ

          風の中の存在 短編

          影のない街 短編

          その街には、影がなかった。太陽はいつも眩しく、空は青く澄んでいたが、誰もが自分の影を持っていないように感じた。人々は忙しそうに行き交い、視線を交わすこともなく、自分の世界に閉じこもっていた。 その街の片隅に、孤児の少年、タケルがいた。彼は廃墟のような古い教会の裏で、かつての温もりを思い出しながら過ごしていた。タケルの髪は日焼けで金色になり、顔には無邪気な笑顔があったが、その目には深い淵が宿っていた。彼は社格の低い孤児で、誰からも見向きもされない存在だった。 ある日、タケル

          影のない街 短編