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人格否定主義=社会主義

某SNSでの話題を元に、一度だけちょっと深く考察するだけの文章です。
今回は、以前私が勝手に産みだした「性利己説」という人間の資質に基づくと、資本主義が最強になる、という話を肉付けしていきたいと思います。
……ええいいんです。もとは「性善説に基づいた社会基盤がバイトテロによって壊されている」ことを嘆いた、某SNSの話題から発展してるので。

性利己説ってのは、私の造語です。
詳しくはこちら。

性善説も性悪説もちょっと芯を喰ってないよ、という話です。

まず。
性利己説の概念を用いると、人間の善性・悪性の正体が見えてきます。
実は善性っていうのは、ほぼ悪性と表裏一体の関係にあります。
人間が育っていくにつれて、自分はこうあるべき、こうでないとならない、という、その人個人の「価値観」が育ちます。
(※善性は幼少時の親の教育によって定められます。悪性は矯正が失敗したかあるいは見過ごされたため、修正できないまでに増幅して価値観として固着したものだ、とここでは考えます。ここらへんの話は長い上に当たり前の話しかできないので、面白くありません。飛ばします。繰り返しますが、性善説も性悪説も間違っており、人間の善性・悪性は生来のもの、と考えるのはヤバいです)

その、人間に固着した価値観が、性利己の本来因子と結びつき、
「自身の正義感に根ざした善意」が発揮されると快楽を感じる。→性善説に近い人間のできあがり
逆に、
「自身の悪性に根ざした悪意」が発揮されると快楽を感じてしまう→性悪説に近い人間のできあがり
となります。
善性も悪性も、いわば快楽に根ざしている。気持ちいいから善だったり悪だったりするわけです。人間ってのは。

重要なことは、
人間の善性(悪性)ってのは生来のものではないが、刺激されると快楽として人に認識される……(1)
ということ。
逆に、
人間の悪性(善性)ってのは生来のものではないが、自分の価値観と反対の善(悪)が表明されると、えもいわれぬ不快感を伴う……(2)
ということ。
この二つです。

これはね、大変なことなんですよ。
なぜか?
実は、この(1)、(2)を、性利己が生み出した後発的なものではなく、どちらか(どちらも?)が人間生来のものだ、と思い込んだがために大きく間違って生み出してしまった社会制度、形態があるのです。

社会主義のことです。

私は、マルクス・エンゲルスによって思考の末に生み出された社会主義は、性悪説が生み出した凶器(狂気)である、と定義づけようとしています。

ま、以降不快な話にしかなりません。
ここまで読んでむかっときた方。お時間とらせて申し訳ございませんでした。読み飛ばしてください。

マルクスの「資本論」にて、彼は産業革命以降発展したイギリス的資本主義に対し警鐘を鳴らし、早晩資本主義は崩壊する、と告げました。
資本論は後にエンゲルスによって全三巻にまとめられ、のちの経済学者と国家主席のど頭を狂わせることになります。

資本論で述べられた、社会主義が理想であるというその要旨を抜き書きしてみます。

  • 資本は「自己増殖する価値、かつ運動体(やりとりされる)」であり、その価値は労働力によって生み出される。

  • 資本主義下で生み出された商品の価値は、その商品に費やされる労働者の労働時間によって決定される(労働価値説)。

  • その労働力もまた商品であり、賃金との等価で交換が行われる(等価交換)。

  • しかし労働力によって生み出された商品には、労働者に分配される以上の価値(剰余価値)を付加して取引(不等価交換)され、資本家は剰余価値を総取りする(労働者からの搾取)。

以上のことから、資本主義は資本家ばかりが肥え太り労働者を搾取するだけの経済形態なので、早晩崩壊する。ゆえに国家が資本・資源を国有化し、政府の策定した計画に基づき、資本・資源の再分配を行うべき。

以上が、この二人が主張する「資本論」の要旨となります。

まぁ、性善説性悪説に基づいたとしても、資本家を性悪説で成敗したいわりには国家を性善説で構成してるあたり論理破綻しとるやろ、とは思うのですが、彼らはのちの共産党宣言において、労働者階級(プロレタリアート)を社会の頂点とするヒエラルキーを構成することでこの矛盾を解決し(たように見せ)ました。

頂点が労働者階級ならちゃんと分配するやろ性悪説だろうが性善説だろうが、ってことですな。
……まぁ、そうはならんかったわけですが。中国とかソ連とか。北朝鮮とか。

しかしまぁ、当時は
「労働者階級政府の誕生は、横領者階級に対する生産者階級の戦いの成果であり、労働の経済的解放をなしとげるために、ついに発見された政治形態だ!」(※パリ・コミューンのこと)
などと絶賛されてたわけです。

資本論そのものについては、現代となってはそこかしこにほころびがあることを後世の学者が指摘しまくっており、もはや社会主義は「ヤバいブツ」扱いとなってしまいましたが。
これがなぜ「ヤバ」かったのかは、実は性利己説に根ざすと簡単に分かる、というのが、本稿の本旨です。(頭に書くべき結論がここに。こういう論文の書き方をすると先生とか教授に鼻で笑われます)

マルクス・エンゲルスの資本論の要旨は上記に示した通りですが、資本を国家によって管理し労働者に再分配する、という発想は、非常にまずいです。
どこがまずいかというと、性悪説を根拠とし、「人間が富を追求する」という「欲求」を「悪いことだから国家によって管理したろ」というとこです。

ここ、ちょっと細かいですが、大事なとこなので詳しくいきます。しばらく面白くないですよ……。

人間(資本家)が富を追求する……じつはこの部分は、欲求が原資となっています。性善説性悪説では性悪説に分類され、悪いことだ、とされてましたが、実は性利己説に根ざすと、この欲求の追求は「人間の本来欲求に根ざした根本のもの」である、ということに気づきます。

性善説性悪説は、それ単体でみるとふーんそういうこともあるのね、程度の話なのですが、これらを元に社会形態を練ると、「善性を伸ばし悪性を排除する」ことに血道を上げることになるのですよ。
善は推奨しなければならない。悪は滅ぼさねばならない。
人間とは素晴らしい者である。人間とは愚かである。
それぞれが性善説・性悪説に根ざし、だから~、と続ける。
これらを元に社会形態を練るなら、人間の本性が善性ならば法制なんて束縛など無駄でしかないし、人間の本性が悪性ならば人間は束縛・排除されっぱなしです。
だからピントが合わないまま、「富の追求は悪だから排除ね」で、一律オッケー、という発想ができるのです。

しかし。
人間の本性を利己心、と、性利己である、と捉えてみましょう。

富の追求は、別に資本家労働者にかかわらず、生来備わった人間の利己心の発露として、自然な成り行きであることがわかります。
社会は、利己だけでは成り立たない人間同士のやりとりを、利他を要求することで円滑に行うという旨を私は前回の投稿で述べました。

ならば。
この社会からの利他の請求は、「少ないほど個人への負担は少ない」ことになります。

いわば社会主義は、人間の本性(利己心)を、完全否定した上に全部国家によって管理する! と述べてるわけです。
いわば社会主義は、人間否定主義、あるいは人格否定主義であるわけです。

さて。
この人格否定主義である社会主義が、なぜ独裁主義と親和性が高くなったのか。
あるいは、社会主義がいっこう社会を平等にしない理由は何か。
そういう肝心なことをこれから……書こうと思ったのですが、残念ながらこれから外出なのです。
肝心な話はなので、次回に!

(ひどい引き)


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