日本人が今後、アジア各国に出稼ぎに行く、という未来は来るのか

某SNSでの話題を元に、一度だけちょっと深く考察するだけの文章です。

「日本の若者の半分以上は、いずれアジア各国に出稼ぎに行くことになるでしょう」
という漫画に、
「僕はおよそ2030年頃にはそうなっていると思います。非常にリアルな漫画だ」
と唱えていた方がおられました。

漫画は、「銀のアンカー」。
作者は、社会科学に精通した顔をして、縦の糸は事実、横の糸は妄想、織りなす布は地獄絵図、な漫画を得意としてらっしゃる三田紀房先生ですね。

そして、上記のようなポストを発していた方は、インフルエンサー気取りの起業家。そして、後のポストで、「でも安心、これに参加すれば~」な内容を投稿。
……うん。もうこのへんで「終了」って声が聞こえてきた。私もそうです。
ポストの選択を誤ったかな、と。

ただ、考えておいて損はない内容だな、とは思いましたので、続行します。

『果たして、そんなことになるだろうか』と。

うん。
なりませんね。
なぜかというと、日本の「高度経済成長」の源がなんだったか、の考察が足りていないために、「個々の現象としてはいいところを捉えているのに、結論が間違った地点に到達してしまっている」からです。
計算はできるのに文章題が苦手、という、数学が苦手な人が陥りやすい、あれです。


★日本の高度経済成長の源とは


人間が優秀だった(ないとは言いませんが)とか、運に恵まれていた(敗戦による支配のなかでは一番ヌルいレベル)とか。
いろいろな因子はあるでしょうが、それらはどれも副因にすぎません。
主因は、一つ。
「土地価格が右肩上がりとなったから」
です。
その、土地価格が右肩上がりとなった、これまた主因は、
「敗戦復興の過程で、男子が少なく、それでいて片付けなければならない土木作業は山のようにあった」

つまり→

「いくら人口を増やしても足りないほど、金の卵となる土地と仕事がありあまってた」
から。
復興を遂げて以後は朝鮮戦争などの特需を経て、安い円による輸出競争力の強みを活かして海外へモノを売る貿易黒字で儲け続けました。
これら工業製品は、とくに重化学工業において顕著ですが、生産過程でさまざまな人体に有害な物質も副産物として生成してしまうので、正直あんまりやりたくないたぐいのもの。なので、日本は「モノづくり」をすることで外国からの仕事を受注していた「下請け工場」として発展しました。
……という流れから、土地の需要は右肩上がりとなり、当然土地価格も右肩上がりとなります。田中角栄以後は、日本列島改造論などのリゾート開発なども追い風となり、これによる土地価格の上昇がイコール「日本人の所有資産」の上昇となり、この国の価値の上昇によって、日本は外国からお金を集めることが出来たわけです。

その後、ニクソンショック、プラザ合意を経て、輸出不利な体勢となりましたが、ドルが安くなったことでアメリカなどへの投資熱は加速し、日本の土地の右肩上がりで資産をつくり、海外の資産を買いあさるといういわゆる「バブル経済」が生まれたのが80年代。
ちなみにこの頃の日本企業の平均PER(株価収益率)は60倍。PBR(株価純資産倍率)は5倍。それでいて配当利回りは0.5%というありさまでした。
これがいかにうまみのない、つまらない、どうしようもない数字なのかは、株をやってる人間だと分かりやすいのですが……ここはそれを説明する場所ではないので止めときます。
言いたいことは、バブル期であってさえ、日本企業というのは投資妙味のない、利益を生み出さない弱体企業であった、ということでありまして、日本の底力なんてなく、全ては「土地需要、土地価格の右肩上がり」という事象が担っていた幻想に過ぎなかった、ということであるわけです。

★途上国が先進国となるには


上記のような理由を経て、日本は先進国となりました。
そしていま凋落している理由はその逆で、超高齢社会となり(その原因はしかし、不況によるデフレ経済が生み出した副産物ですので、突き詰めると卵が先か鶏が先か論争になりかねませんが)土地価格が右肩下がりとなっているからです。
なんですが。
実は日本はバブル期を経て、資本主義国家でありながらかなり社会主義的な政策を推し進めており、たとえば重工業による副産物としての毒物(雑な表現でもうしわけないですが)を除去して放出する法律を多く施行しており、また持って生まれた生真面目さも手伝って、かなり環境において負荷の少ない、よく言えば浄化された国となりました。
この行為はとうぜん、企業に余計なコストを強いるわけで、その分を製品の価格に転嫁すれば対外競争力は低下します。低下したところにどこぞのあほ政党の超円高放置政策が重なったせいで、日本の輸出企業の対外競争力はお逝きになってしまい(エルピーダ……)、ただそれでも内需の国としてまだ相応の面目を保っているのは、実はすごいことだとは思います。

さて。
日本の例を海外、とくにこれから振興してくるであろうアジア各国に当てはめて考えると。
途上国が先進国となるためには、今後何が必要なのか。

ここまでの段階で、以下の二つが必要不可欠であることが見えてきます。

  • 土地需要が右肩上がりであること。必要条件として、若い人の人口増が継続すること

  • 社会保障をある程度のレベルで維持し、かつ環境負荷を現在の先進国並みに低減すること

現状、アジアの新興各国は、環境への負荷をあえて見過ごし、人口増による土地需要を背景として、力押しで経済を発展させてきております。
具体的な国を挙げるのは避けますが、川や土地が汚染につぐ汚染、という状況となっていることは胸が痛みます。いわば、先進国の下請けをすることで、環境負荷のつけを払って貰っている状況だからです。

力押しは、右肩上がりのときは勢いで全てを解決できますが、品物が行き渡り、需要が飽和して「成長」が止まったとき。日本と同様に、おそらく新興各国にも、試練が訪れることでしょう。

★凋落した日本が抱える「ワカイヒトタチ」


さぁ。
このような状況を見て、単純に
「今凋落している日本が、これから新興するであろう国にて出稼ぎで働く」
ことに、違和感が見えないとすれば。
それは、個々のデータを「眺めているだけで思考を働かせていない」ということに他なりません。

「今凋落している日本が、これから新興するであろう国にて出稼ぎで働く」
という言葉は、言葉だけ見るとそれほどの驚きはなく、むしろ妥当に思えるのです、が。
問題は、「可能かどうか」にあるのです。

そういえば前回のnoteで私は、こんなことを申しました。

人の理想と現実が乖離している場合、人はまず、現実を理想に近づけようと努力します。
そしてその結果、なぜ現実が理想に近づかないのかという「原因」に行き当たり、それが変更可能なのか不可能なのかを探ります。
そして、少しずつ、社会のなかの設計に携わる人たち……つまり政治家や国会議員、地方議員、町の有識者などを動かして、社会のしくみにおいて変えるべき部分を変え、それでも変わらない部分があれば諦める。その繰り返して社会は現在もこの形で存続しています。……(A)

しかし、(A)の過程を既に経た世界で、(A)を経験しなかった人たち、つまり経験の無い若い人たちは、(A)を経ることによって起こった新たな社会問題に相対したとき、(A)の知識がないために再び(A)の考察をし、二度手間三度手間の車輪の再発明をする、というようなことが数々あります。

理想と現実のすり合わせの話であり、今回の議題とはいささか乖離してはおりますが。
焦点を「社会のあり方」と捉えるならば。
(A)という問題が過ぎ去り、(A)を経験していない人間が、果たして(A)以前の環境で精神を潰すことなく生活していけるのかどうか。労働していけるのかどうか。
これは重要なファクターだと、私は思うのです。

先進国の下請けとして環境と人間の幸福度を犠牲にしてぎちぎちに発展しようとしている国々は、エネルギーに満ちあふれている分、生存淘汰圧はたいへんなものがあります。
そんななかで、その淘汰圧を経験していない、十分……とはいかないまでも、八分くらい……に社会保障などが行き届いた現在の日本に生きているワカイヒトタチが耐えられるかどうかはまったくの別問題です。
というより、ワカイヒトタチがそこまで新興国の淘汰圧エネルギーに、もしも耐えられるというならば、それこそ日本もまた今後発展する潜在力を秘めていることの証左にしかならないのではないでしょうか。

今後発展せず、新興国へ出稼ぎするしかない、という結論ならば、その時代のワカイヒトタチはエネルギーには満ちあふれていないわけで、新興国の淘汰圧に挽き潰されるだけですから、海外で出稼ぎなんてもっての外でしょうし。
そうでないというならば、日本もまた再び(低い社会保障、高負荷な労働環境下で)横溢に発展する余力を秘めているということで、それこそ他国へ出稼ぎするまでもなく、自国で縦横無尽に労働し、その力で日本は再び先進国へと返り咲けるでしょう。

いずれにしても。
脳みその少ない怪しい起業家の世迷い言と三田紀房には、眉に唾して近寄らない。
これが最善手である、ということは確かであります。

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