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【掌編小説】選択的夫婦別姓

 乙野梅子(おつの うめこ)は深いため息を吐いた。あの日からだ。同棲五年目の甲野義太郎(こうの よしたろう)から結婚を切り出されたあの日から――。
 「そろそろ結婚しようか」
 甲野の言葉を聞いて、乙野は面食らった。いつも通りに2人で夕食を食べ、各々がスマートフォンを見ながらくつろいでいる最中の出来事だ。完全な不意打ちだった。
 「なんで? 急に」
 恋人の顔を覗き、恐る恐る尋ねる。戸惑いはしているが、嫌なわけではない。ただ、疑問が口を衝いた。
 甲野はといえば、相も変わらずスマートフォンに視線を落としながら、画面を指先でなぞっている。
 「そろそろいいかなと思って。親もうるさいし」
 普段と変わりのない声だった。
 乙野は胸のうちに少し引っかかるものを感じた。同棲5年目ともなれば、結婚は延長線上なのだろうか。だから、特に喜びも何も感情がないのだろうか。それとも、感情が見えないだけだろうか……。
 「うん、わかった」
 さざなみだつ心をかろうじて抑え、あくまで平静な声を装う。急な結婚話だが、きっとそういう時期なのだ。自分でもそろそろとは思っていた。いい機会じゃないか。
 驚きが少し嬉しさに転じ、自然と乙野の声は明るくなった。
 「じゃあ、わたしが甲野になるね」
 「え?」
 甲野が顔を上げた。その目は見開かれていた。
 「いやいや、何言ってんの。別姓だろ」
 今度は乙野が「え?」と驚く番だった。しかし、甲野がそれを気に留める様子はない。
 「梅子は乙野のままでいなよ。夫婦同姓とか時代遅れだろ」
 「わたしは同姓がいいんだけど……」
 「そんなの、今どきいないって。梅子は乙野、俺は甲野。生まれつきの名前を大切にしようよ」
 甲野が優しく笑う。
 乙野は迷った。確かに、最近は夫婦別姓にする人が増えている。しかし、彼女の両親は同姓だった。同姓であることのほうが、家族らしい気がするのだ。
 話し合えばわかってもらえるのではないだろうか。そう思った。
 「義太郎の思いはわかったけど、わたしは同姓がいいんだよね。義太郎は姓が変わるわけじゃないし、何も不便はないでしょう? わたしが甲野になっても」
 「うーん」
 ことりと音を立てて、甲野がテーブルにスマートフォンを置いた。目線を宙に泳がせて、胸の前で腕を組んでみたり、首を傾げたりをしばらく繰り返した。
 「それがさ」
 ようやく開いた口から、少し言いづらそうに言葉が紡がれる。
 「俺の実家さ、爺さんの代から夫婦別姓なんだよ。その文化を大切にしたいっていうかさ。親が嫌がると思うんだよね。夫婦同姓だと」
 わかるだろう? と確認するように、甲野が乙野の目を覗き込む。
 乙野は何も言えなかった。
 「同姓なんてしたら、面倒だよ? 銀行口座とか、いろいろ名義変更しなきゃだろ。別姓はそういうのいらないんだから、梅子にとってもそのほうが絶対にいいって」
 沈んでいく乙野の気持ちと対比的に、甲野の口調は軽い。
 乙野はまだ何も言えなかった。恋人の気持ちを大切にしたい思いはあるが、自分の希望もある。どう返事をしたらいいか逡巡するうちに、ハッと、あることに意識を取られた。
 「戸籍」
 甲野に問いかける。
 「戸籍筆頭主はどっちにするの?」
 「それは、収入の多いほうだろ。常識的に考えて」
 つまり俺だよ。甲野がそう言いたいのを、乙野は察した。
 「義太郎ってこと? 少ししか違わないけど」
 「少しでも、俺のほうが多いことに変わりないだろ」
 「そうすると、もしも子供が生まれたら、子供の姓は甲野だよね?」
 「そりゃそうだ」
 「それ、嫌なんだけど……」
 「ええ?」
 甲野が顔をしかめた。心底面倒臭く感じているのが、にじみ出ている。
 「そういうもんじゃん。わがまま言うなよ」
 「わがままなのかな?」
 「わがままだろ」
 「じゃあ義太郎の思いは?」
 「俺のはしかたないじゃん。親の気持ちも考えたらさ」
 「それ、おかしくない?」
 「おかしくはないだろ」
 甲野がスマートフォンを手に取り、画面を指でなぞり始める。
 「てか、別にいいんだよ? 嫌なら結婚しなくて。でもよく考えろよ。同姓なんて別にメリットのないこと、なんでこだわるかな……」
 話しながら、目はずっと下を向いている。
 その日はもう、乙野と甲野の目が合うことはなかった。
 その日からなのだ。
 乙野の中では、恋人への愛情と自分の希望を載せた天秤が、ずっと重く揺れていた。

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