ヨルシカ「幻燈」についての覚書2
最近の興味、人が「物語」や「芸術」を必要とする理由を踏まえて、ヨルシカを考えてみる。
おそらく原始的な物語のあり方は、宗教であると考えている。それは不安定な世界や社会に意味と秩序を見出し、世界の輪郭を理解する試みであったのではなかろうか。
そこには「想像」はあるが「虚構」はない。科学のない時代には、感じたものこそが現実であり全てであった。
そうして自然に開かれ、そこから「やってくる」ものを表現する人物が、物語る人・芸術家(教祖や巫女あるいは琵琶法師や吟遊詩人)として存在した。
しかし、「物語」はやがて人工的な社会制度を維持するためのイデオロギーとして機能し始め、自然と距離を取るようになる。
「芸術」も近代的自我の発明によって、「私という確かな存在」を表現し、証明するものとして変化して行った。
私小説などはその代表的なもので、ヨルシカもといn-bunaの創作も、オスカー・ワイルドやヘンリー・ダーガー的姿勢を理想としているが、「あなた(とわたし)の美しい思い出を芸術化する」ことを望みつつも、承認欲求や生活のための創作活動をする俗物的自意識に苦悩するという構造から「私小説的」であると言える。
オスカー・ワイルドが「芸術」について、自然や人生における美に対して、時間や死によって破滅することの無い形を与える活動であるとした上で、芸術と芸術家は本質的に無用なものであると考えたのは、こうした近代的芸術への逆説的な批判であることは間違いない。夏目漱石の「則天去私」や、芭蕉の考えなどもこれに通ずる。
私的に解釈すれば、「虚構か現実かという垣根を越えた、あらゆる解釈可能性を含む、豊かな世界のあり方・その空間(空であり無)」を表現するのが「芸術」であると理解することができる。
しかし、社会生活に過度に順応した現代人にとって、「空・無」であることは豊かであるより先に「私という存在」の不在・不安として知覚されてしまう。
一方で、割愛するが、あらゆる俗物的欲望を徹底的に切り離したディズニーランドや、対照的に大衆の欲望の受け皿として機能するアンディ・ウォーホル的ポップアートのように、「表層しかない」という意味で「空・無」を実現するアプローチも見られる。
ヨルシカの面白いところは、創作的行き詰まりの出口として、物語の「オマージュ」さらには直接的引用による「コラージュ」的詩作を用いたことにある。
オマージュはともかく、コラージュに関しては、表層を切り貼りすることで、その意味を解釈しようとする鑑賞者の目を構造的に取り込む手法であり、明らかな風刺でない限りその作品の意味は鑑賞者の解釈次第という意味で「空であり無」を表現するアプローチだ。
これは「芸術」的方向には活路を開いたが、「私小説」的方向には大きなコンプレックスを抱えることになったと思われる。「私という存在」を語る方法として、他者の物語をベースに他者の言葉を借りたのだから無理は無い。
「盗作」はそうした作品で評価を受けた自己批判であり、評価をした大衆批判であり、何よりも盗作(的な手法)でオリジナルと認められてしまう恐怖に対する自己防衛の手段であると解釈することができる。
そんな正直すぎる自意識とその自己開示的表現(もちろん音楽的センスは言うまでもない)が、彼の魅力だと思う。ある種の庵野秀明みを感じなくもない。
「幻燈」は彼の目的とする「芸術」の纏まったひとつの形であると感じられる。自然や社会から隔絶され、閉じられた過去の思い出だからこその寂寥感と美しさがある。それ故にこれ以上の拡がりを感じられないという行き詰まりもある。
作品についてはそんなところだが、もうひとつ興味深いのはその鑑賞のされ方にある。
現代の消費者はその対象を過剰に神格化・神聖化そして偶像化する傾向にある。その原理や原動力は、掻い摘んで言うと現実をそのまま受け入れられない(虚構というフィルターを挟まないとリアルとして受容できない)という回路的問題であると思われる。
オスカー・ワイルド的であろうとするn-bunaも、例外無くアイドル的に持ち上げられる中、その繊細さ誠実さで消費者の眼差しに耐えられるのかが勝手に心配である。
しかし、自らを固定化する眼差しをうまく回避しつつ、キャラクター性の強化にも繋がるよくできたモデルが、vチューバー的アバター(ado・花譜など)や顔出ししない(秋田ひろむ・ずとまよなど)という方法が存在していると思うと、世の中よくできている。そういう意味では全くの杞憂かもしれない。