喜怒哀楽の『怒』が抜け落ちたまま大人になった人の話|1ヶ月書くチャレンジDay8
今回もいしかわゆきさんの『書く習慣』からお題をお借りします。本日は「最近怒ったこと」について。
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最近怒ったこと。
ふむふむ。
・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・あれ?
「最近怒ったこと」について書こうと思ったのですが、思いつきません。
「優しいね」
「なかなか怒らないよね」
「自分の思ったこと、もう少し伝えても良いんじゃない?」
そう言われることが多いとはいえ、怒ることがないという訳ではないはず。
それなのにも関わらず、私の中には怒ったという思い出がありません。
そういえば一度、誰からか言われたっけ。
「くれもさんって喜怒哀楽の『怒』が抜け落ちているよね」
思えば確かに、子どもの頃は心の底から何かしらに怒ったということがなかった気がします。弟や妹が3人いるのですが喧嘩をしたことは一度だってなかったし、友人と喧嘩をしたことも一度だってなかったし、親・祖父母・教師に反抗をしたことは一度だってありません。反抗期だって当然ありませんでした。
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心療内科に通い始めたのは高校生の頃です。当時の担任から勧められたため通い始めました。
「昔、私が担当した生徒が自ら命を絶ったんだ。くれもさんを見ているとどうしてもその子のことを思い出してしまう」
担任の先生の言葉です。しかし、当時の私には悩んでいるという自覚すらもありませんでした。当時の私には喜怒哀楽の『怒』だけじゃなく『哀』も実感ができていなかったんです。
病院に行っても、そもそも悩みがない(悩みを自覚できていない)ため、胃が痛いという主張しかできず、胃薬のみが処方され続けました。
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けれどそれから十数年が経って、悲しい気持ちだけは感じられるようになってきました。
「なんでこんなに悲しいんだよぅ! 畜生!」と思うくらいには、人生悲しいことでいっぱいです。
少し前、飼育していたファンシーラットとのお別れがありました。苦しくて苦しくてたまらなかったし、数ヶ月の間引きずっていたのだけれど、それって、「その子との生活が楽しかったから」だし、「その子のことが大好きだったから」なんですよね。
きっと『怒』という感情も同じようなものなんじゃないのかな、と思っています。自分の中に”何かしら大切なもの”があって、それがないがしろにされて悔しくて堪らないから、人間って怒るものなんじゃないのかな。
私の中にも”何かしら大切なもの”はあるんじゃないのかな。私の中にも『怒』っていう感情はあるんだけれどただ単に自覚ができていないだけなんじゃないのかな、って。
だから、怒りという感情を自覚できるようになりたい。
最近はそれでも、自分の意見をだいぶ主張できるようになってきた気がします。「・・・・・・ちょ、それ違くない?」と思えば、敢えてそのまま伝えるようになってきました。
まずは「自分の思っていることをそのまま伝える(ただし表現は考える)」よう、心掛けていこうと思っています。
自分の行動から自分の感情が見えてくる。
そういうことだって、あり得るんじゃない?
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人間にとって、きっと、『哀』も『怒』も大切な感情のひとつ。
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