障害者クレーマーを産む3つの構造 #2
構造1:「社会への貢献」という幻想
・GLOBE+ 2021年4月12日『「わきまえる障害者になりたくない」JR東の対応に声上げた、車いすの伊是名夏子さん』
・note 2021年4月6日『車椅子ユーザーはそれでも負けない 』
・BuzzFeed 2017年6月29日『なぜ声をあげた障害者がバッシングを受けるのか?バニラ・エア問題、本当の争点はどこにある』
「障害者クレーマー」に関わる記事を読むといくつかのパターンに気づかされます。
・「声をあげる」ことによって施設(エレベーターやアシストストレッチャーやスロープ)/介助(車椅子の持ち上げ)が実現する。
・自分たちが動かなければ社会は何もしない。愚かで誤り。
・健常者と同じように生きられるのは障害者にとって当然の人権。
・相手が謝罪したので私は正しかった。
・批判されるのは私が悪いからではなく、社会が無理解だからだ。
・要求は「合理的配慮」の範疇。
(・周囲に障害者はおらず、他の障害者に仲間意識はない。)
(・行動を起こす場所は自分がよく使う場所ではない。)
これには誤りが多いことが気づかされます。
読んでいて即座に違和感を持つ人が多いのではないでしょうか。
実際はこうです。一点ずつ指摘します。
・施設/介助が実現したのは社会の優しさと負担によるもの。
・民主主義国家で意見が通らないのは基本的には誤りだから。
・障害者に健常者と同等の体験を保証する人権の規定はない(次で詳しく)。
・クレーマーが正しいから謝罪したのではなく、謝罪の強制。
・批判されるのは間違っているから(「悪いから」ではない)。
・要求は合理的配慮を逸脱しているし、負担が過重。そもそも努力義務。
あまりにめちゃくちゃな主張です。
とはいえ彼らの行動は見た限り利他的です。
自分が属する狭い集団へ利益誘導には見えませんし、自分がよく使う場所ではなく旅行先では行動する手間に見合う利益を得ていません。
インタビューで語る「自分のためではない」という言葉も単なる嘘や建前に過ぎないような印象を、少なくとも私は受けませんでした。
確かに障害者の視点でなければ分からないこともあり、時に情報提供は有用です。
しかしそれはあくまで情報提供、きっかけです。
実際に施設/介助が実現するのは、社会がその必要性を認めコストを負担したからです。
コストの無視
彼らの語りからは「社会の支出」つまり税金/(鉄道会社や運賃での)支出/追加の手間という視点が完全に抜け落ちてしまっています。
まるで彼らが「声をあげる」と「どこからともなく金が湧き出て」施設/介助が実現するかのようです。
補足:この問題で批判が殺到したのはこの誤りが明白だからだと思います。
指摘にある「感謝の不在」が示しているのは、「感謝」そのものという精神論的な問題ではなく、クレイマーが社会の支出を認識していない異常を指摘していると考えられます。
つまり彼らはこのように考えているのです。
クレームにより
社会が得る利益 > 掛かる自分の手間 > 自分が得る利益
文章にすれば「私は得られる利益以上の手間を掛けてクレームを入れている。なぜなら私が行動することで社会はその手間以上のものを得るからだ」ということです。
箇条書きにすればこういうことになります。
・クレームに必要な手間は、自分が得る利益より大きい
・しかし社会全体が得る利益は自分の手間より大きい
・だから自分が犠牲になっても、社会全体のためにはクレームを入れるべき
・私は不利益を受けながら社会全体に貢献したのだから、感謝されるべきだ
・利益以上に手間を掛けた私は利己的ではない。感謝する理由はない
・介助/施設などは増えれば増えるだけ社会の利益になるから、際限なく増やすべきだ
しかし現実には介助/施設の拡充はタダでは実現しません。
そのコストを誰かが払っているのです。
具体的には納税者や利用者や駅員が払っていて「助け合い」ですらありません。
つまりこういうことです。
クレーム対応コスト > 情報の価値 > 0
(介助/施設の増加で)社会が得る利益
= 社会が払ったコスト - クレーム対応コスト + 情報提供の価値
(実際に)社会が得る利益
= (介助/施設の増加で)社会が得る利益 - 社会が払ったコスト
= 情報の価値 - クレーム対応コスト < 0
つまり彼らは社会に害を与えているにも関わらず、あたかも社会へ貢献していると誤解しているのです。
誤解です。善意なのです。
つまり彼らは利己的ではなく全くの逆。
性質としては利他的な、善良な人々なのです。
仮に彼らが静かに情報提供をするだけなら、それは社会貢献で間違いありありません。
大抵は誤っているので無視され、時に参考になる情報は聞き入れられる。そうした健全な関係が築けるでしょう。
しかし1時間も「交渉」したり、マスコミを味方に付けて脅迫するようなことは有害でしかありません。
しかし彼らはそれを認識していません。
ここでは一般人とクレーマーの間で以下のようなすれ違いが起きています。
批判されても意に介さないのも当然です。
クレーマーは本心でこう思っているのです。
現象:クレームで得られた利益が、クレームの手間より小さい。
一般人:クレームに喜びを感じているからだろう。
クレーマー:(彼らの認識では)社会への貢献としてやっている。不当な攻撃。
現象:クレームにより社会に損失が出ている。
一般人:クレームは迷惑だ。
クレーマー:クレームは確かに迷惑。だが、(タダで)施設/介助が充実する利益はそれを上回る。
現象:(今回の場合)駅員の苦労を無視している。
一般人:されて当たり前と思っている。感謝が足りない。
クレーマー:仕事が増えて給料や雇用も増える。自分はわざわざクレームをして社会を良くしているのだから感謝する理由がない。むしろ私に感謝すべき。
現象:(今回の場合)事前に連絡しない。
一般人:なぜ? 私なら連絡する。
クレーマー:自分の利益を目的にしていない。社会を良くするのが目的。だから連絡する理由がない。
現象:明らかに過大なサービスを要求する。
一般人:権利を主張しすぎ。少しは我慢して。
クレーマー:障害者をいじめるな。税金(や鉄道会社の収入)はどこからか沸いてくるんだから好きなだけ使わせろ。
現象:何度批判しても分からない。
一般人:なぜ話を聞かないの?
クレーマー:根本的な認識の違いがある。批判が正しいと思っていない。
なぜ分からないのか?
障害者クレーマーを支える理論は、「施設/介助にコストは掛からない」という一点に支えられ、あまりに脆弱です。
私が指摘するまでもなく数秒考えるだけで誤りに気付くはずです。
なぜ彼らは気付かないのでしょうか。
おそらく「実際には気付いているが、認めることは余りに心理的負担が大きいから」です。
彼らの知的能力に問題があるとは思えません。当然気付いているはずです。
しかし彼らは何年も「自分を犠牲にし社会の為に貢献しているのだ」と信じ続けて来ました。
ある日知らない人から「あなたは社会に貢献などしていない。害を与えてきただけだ」と言われて受け容れることなどできません。
労力に見合う利益を直接得ているなら手元に何かが残ります。
しかし彼らは何も得ていません。
「社会へ貢献してきた」という確信だけは失いたくない。
それ故にあまりに明らかな欺瞞を自分にも他人にも続けるのです。
そして信じ続けるにはクレームを続けるしかありません。
こうした心の動きを防衛機制と呼びます。
この場合は「合理化」にあたります。
あなたも似たような経験はありませんか?
いくつか「施設/介助にコストは掛からない」という無謀な主張を正当化しうる理論は考えられます。
実際にそうした発言例もあります。
典型的ですが念のため反論しておきます。
主張:政府は税金を無駄遣いしている。有用なことに向けるべきだ。
反論 #1:日本は民主主義国で決定は基本的に正しい。無駄遣いは例外。
反論 #2:無駄遣いがあったとして、クレームは無駄遣いをなくさない。無関係。
反論 #3:仮に政府を無能や悪とするなら、無駄遣いを辞めて有用なことに使うのではなく、有用なものを辞めてバリアフリーなどに割り当てるはず。
主張:健常者も障害者と同じようにコストが掛かる。同じことだ。
反論 #1:市場や民主主義による決定の場合、必要だからコストを掛けている(要はその分払っている)。クレームではそれ以上を要求している。
反論 #2:健常者が通常以上のサービス(手助け・手伝い)を受ければそれを認識し感謝し言葉を交わすのが通例。
主張:障害者の主観では健常者以下の体験しか受けていない。コストは存在しない(#3参照)。
反論:理論として成立していない。同じ体験に必要なコストが違う。
主張:介助は駅員の仕事。
反論:普通より仕事が増えてる。給料が増えるでもない(つまり駅員がコストを負担している)。仮に増えるなら社会が負担している。つまり「負担がない」とする根拠にはなっていない。
主張:結局できたんだから元々キャパシティーはあった。
反論 #1:クレーム対応よりまだマシだから無理をして対応しただけ。
反論 #2:「キャパシティー」で済むのは摩耗しないモノや概念の場合。人を動かすのはコストや手間が掛かる。
類例
類似の構造はいくつか見られます。
ここで説明したのは「実際の負担の無視」と「社会が得る利益 > 掛かる自分の手間 > 自分が得る利益」という誤解という二段階に分けられます。
前者がなくても後者が見られる場合もあります。
前者については利益誘導型の政治家があります。
ただしこの例では実際に政治家の職を国民に託され、社会に貢献があったという点が異なります。
もちろん本当に不正な利益誘導をしていたならばその限りではありません。
後者は社会運動家の多くに見られます。
彼らは多くは誤った認識のもと、自分の行動が社会に利益をもたらすと信じ、利他的な意図に基づいて害をなす行動をします。
そして認識の否定は自己への過大な負担になることから合理化を行い、自分と異なる意見を無知・無理解と断じ対話を拒みます。
しかしそれが正しい認識であったと後に判明する例も稀に存在することも指摘しなければなりません。
身近な例としては「博士課程の大学院生」でありがちなパターンです。
キャリアにとって最良の選択と信じる人、研究が楽しいと思っている人も実在しますが、それ以外では「自分の研究が社会へ利益をもたらすから」という利他的な動機があります。
より正確には「自分が最も社会に貢献する手段が研究である」「会社でやる仕事は無駄で非効率だ」というのが近いでしょう。
合理化として研究・学問の価値を過大に評価し、それを否定する社会を無学・愚かだと切り捨てる点も共通しています。
社会が外観的には非合理的な行動を理解できず利己的行為と誤解するのも似ています。
極論としては、いくつかの分野では「学問の価値」自体そうした合理化から生み出された虚構に過ぎないとさえ考えることができるかもしれません。
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