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生活とVR、コミュニ「ケ」ーション、お食事

物理とバーチャルのコミュニケーションの差について


突然ですが、私こと紅林アオにはネット上(主にSNS)でも繋がっているリア友が2人います。

仮にAさんとBさん、と呼ぶことにしましょう。

Aさんは小学生時代からの付き合いで家も近く、未だに休みの日には私の家で集まって一緒にゲームしたりYouTube、ニコニコ動画を見ています。逆にSNSでの絡みは、たまにいいねを押したりリプライをしたりするくらい。そこまで多くありません。必要ならLINEで連絡するし。

対してBさんは大学3年生からの知り合いで、お互いの住まいは知りませんし、リアルで会って遊んだのは数える程しかありません。しかし、ソーシャルVRユーザー同士なので、VRChatで待ち合わせてYouTubeみたり、雑談したりします。連絡手段も(LINEを知っている上で)SNSが多いですし、お互いのツイートへの反応もBさんとの方が多いかなって印象。

2人の友人について、一見すると正反対の属性を持ったコミュニケーション方法を取っていますが、私自身の実感として、両者のコミュニケーションについて質的差異や、(精神的な意味での)円滑さの違いを感じたことはありません。

もちろん、集合と解散の気軽さや会話のラグ、回線状況、後片付け等があるので両者のコミュニケーションが全く同じとは言えませんが、片方がもう一方に比べて明らかに劣っている・優れているということは、(少なくとも私の実感においては)ありませんでした。

ハレとケのVR

※ハレとケって言葉を使います。めちゃくちゃざっくり説明すると、ハレ=特別な日・ケ=普通の日という認識ですかね。

今までもソーシャルVRサービスを度々使ってはいましたが、ほとんどがイベントへの出席だったり、SNSで知り合った人との打ち合わせがメインだったので大きく二分割するとハレに分類されるタイミングでの利用が多かったです。単純にバーチャル空間で遊ぶ時も数人で予定を合わせどこに行くか予定を決めてから集合する、「お出かけ的要素」が強かったかなと感じています。

べらぼうにハレの日ですね、これは。

しかし、BさんがソーシャルVRを始めてからは「ただYouTube見るだけ」「何となく時間があったから面白いワールドに行く」という、「ケ」にあたるコミュニケーションが増えました。

…なんか長いから以降はコミュニ「ケ」ーションって書きますわ。

そして、コミュニ「ケ」ーションが増えると、準備の手軽さから、私はVRモードではなくデスクトップモードでVRChatに入る頻度が増しました。

より「ケ」感が加速する。

しかしVRモードと比較して、コミュニケーションの質が下がることは無かったです。面白いことにね。

確かに没入感は下がるのですが、飲食や御手洗の際にヘッドセットを外すことで感じていた、次元ギャップによる違和感が解消されて、個人的にはむしろプラスが多いくらい。何より準備と片付けが必要ないから気軽にできる、これが重要と気づきました。

コミュニ「ケ」ーションとはコスパである


少し脱線しますけど、ソフト・ハード共に「日頃使うツール」に求めるものはなんですか?

便利さ、手軽さ、コスパ、デザイン。この辺りだと思います。
わざわざ普段使いするスマホを不便にしたり、好きでも無いデザインのケースをつけたりしないでしょうし、手軽で無料のLINEを差し置いてまで、手紙に切手を貼ってポストに入れて友達と遊ぶ約束をしないでしょう。

逆説的に、日頃=「ケの日」に触れる物は自然と便利で手軽でコスパの良い可愛いもの、で溢れることになるわけです。

(もちろん例外はあります。これら全てを差し置いて「好き」がもたらす情熱はあらゆる不便もコスパも凌駕します。素敵だね!)

対して、「ハレの日」にはドレスを着たり、着物を着付け、長い時間移動して高い食事を食べます(偏見かな?)。ハレも生きていく上で大切な時間ですが、毎日これだとやっぱり疲れる…。と言う人が多いでしょう。


閑話休題


デスクトップモードに移行した事をきっかけに、私にとってVRChatがコミュニ「ケ」ーション、つまり手軽でコスパが良いものになり、急激に「日常の一部分」という感覚が強くなりました。
(後述しますが、ヘビーユーザーが感じているVRで生きている感覚とは、また別であると思っています。)

さらにいえば、コロナ禍で知名度を上げたZOOMなどのwebミーティングサービスの画面共有を使ってYouTubeを見るより、もはやデスクトップからVRChatに入ってUIにURLを貼り付ける方が、動画とリアクションのシェアが楽な事に気がついたのです。

こうして、私の生活にVRChatが組み込まれたのでした。(デスクトップモードだけどね)

空間としてのVR、ツールとしてのVR


ここまで読んでいただければ、私こと紅林アオが、ガッツリVRを使い込んでいる訳では無いライトユーザーであるということが、それとなく伝わっていると思います。

それ故に、私のVRにおける生活実感は「紅林アオという人間の送る生活の一部分」であり、バーチャルな空間上で生活を完結させる意味での「生活実感」ではございません。

いわゆる、「原住民」と自称しているソーシャルVRヘビーユーザーの方々が感じている、VRにおける生活実感は(おそらく)、「生活の大半をVRで過ごす」という経験からくる実感だろうと考えています。

どっちが優秀とか、そういう話ではありませんが、両者の「生活実感」という言葉に対する認識の乖離は少なからずあるだろうな、とは思っています。

あぁ…もしかしたら「デスクトップモードの癖にソーシャルVRを語るな!」ってお叱りが来てしまう…??いや、みんな優しいからそんなことないよね?

生活とコミュニティ、そしてコミュニケーション


先程から「生活」「生活」と、生活について語っていますが、生活の定義ってなんでしょうね。

ということで辞書を引いてみました。

生活(せいかつ)とは、「生存して活動すること、生きながらえること」「世の中で暮らしてゆくこと」である

広辞苑第5版

とのことです。
一言で言うには多義的ですが、どうやら生きているだけではなく、「世の中」で活動することが大事らしいですね。…世の中?

では次の辞書タイム。「世の中」とは 


人々互いにかかわり合って生きて暮らしていく場。世間社会。「―が騒がしくなる」「暮らしにくい―になる」
世間の人々の間。また、社会人間関係。「―はもちつもたれつだ」
「親も友達もないんです。つまり―がないんですね」〈漱石明暗

デジタル大辞泉より抜粋

ふむふむ。「世の中」とはそういう意味ですか。

つまり、生活とは「人と人が関わりあって暮らしていくこと」と辞書的に言えば定義づけられそうですね。

コミュニティ、延いては生活実感と食事


またまた脱線。

とても心理的な話、食事という行為は「人との繋がり」や「コミュニティへの帰属」を感じる代表的な行為のひとつだと思っています。

コロナ禍で機会が激減してしまいま
したが、ご飯はみんなで食べると美味しい。と今も昔も言いますよね。

それに、「同じ釜の飯を食う」「寝食を共にする」のような食事に絡めた人と人の親密度を表す慣用句も存在しています。

さらにさらに、日本神話における「黄泉竈食(ヨモツヘグイ)」ギリシャ神話の「ペルセポネの冥界下り」など伝承の世界においても、食事と生活場所を結びつけることがあります。

(食事に限らず、盃を酌み交わすとか一味神水とか、何かを口にすることがコミュニティの形成や結束のトリガーになるケースは多々あるよね〜)

もう一声。その地方、共同体を代表する「郷土料理」「家庭の味」なんて言葉もあります。

何が言いたいかというと、生活を構成する人との繋がりを実感する要因の大きなひとつ、おそらくトリガーとなりうる行為に「食事」が含まれているであろうと言うことです。

バーチャルのお話に帰りましょう。
私はデスクトップモードに切り替えた事により、本格的な食事には挑戦していないものの、バーチャル空間上に存在しながらも水分補給を行ったり、お菓子を食べることができるようになりました。

慣れている方であればヘッドセットの隙間から、もしくは手の感覚を頼りに飲食が可能でしょう。(誰かがHMD付けながら焼き魚食べてた気もする)
自分は不器用なのでペットボトルすらヘッドセットをつけていては難しい…。

難易度の話はさておき、こうしてバーチャル空間での飲食をきっかけに、その空間での生活実感が芽吹くのではないでしょうか。

と、新宿のブックタワーでスペイン料理の棚をふと眺めていた時に思い至ったのです。

グラシアス アヒージョ

まとめ

色々な話題に飛びながらソーシャルVRにおける「生活」について考えてみましたが、あまりにも話が散らかってしまったので、最後にビシッとまとめたいと思います。

「生活」とは「人と関わりながら」日々、つまり「ケ」を過ごしていくことであり、その実感に大きく作用するのが「食事」ではないか。という仮説でした。



あー!ソーシャルVR上の生活実感と食事経験の相関関係のアンケートを撮りたい!!




でも私には拡散力がないいいい!!!!


【緩募】バーチャルインフルエンサー


それでは、紅林アオでした。また会おうね。







本当にどうでもいいオマケ

私、帰納法で文を書く癖があるみたい。

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