無題の手記・一
この度、急逝した友人の遺品整理をしていたら、様々な原稿が出てきた。当人が生きているうちに出さなかったのだから、世には出したくないのだろうけれど、しかし、私は当人の原稿を捨てるのは忍びなかった。そのままサッとポケットにしまって、幾年かが過ぎた。過日、偶然それを発見したので、ふとした思い立ちで、この場で発表してみようと思う。なかなか面白いことが書かれているので、ぜひ読んでみてほしい。
編者
深夜三時。大学そばのカラオケボックスで歌っていました。サークルメンバーのうち9人で。この世の終わりを感じた。鳴り響くクリープハイプ。HE IS MINE なんか歌っちゃって。なーにが「こんど会ったらセックスしよう」だ。バーロ。絶叫している自分が恥ずかしくなった。卑猥だけれど、他人に不快に思われない程度の猥談。高校時代みたいな「ドン引き」はない。そこには小慣れた気遣いのしあいと、それを以てしても隠しきれぬ本能があるだけだ。
われわれは動物なんだ、そう思い知らされる。よく動物的なセックスなんて言うけど、それこそこれは体を介さぬ「動物的な」セックスなんじゃないか?そう思えてくる。言葉だけの、プラトニックな、「本物」の性交よろしく気を遣い合うだけの集団交尾。
先日ぽろりとこぼした「おれたちが見たかった景色ってなんだったんだろうな」という言葉。間違いなくこれではない。違う。否である。決して、打ち上げ終わりに「セックス」と絶叫する人生の眺望ではない!そう魂が叫べど、現実は変わらない。現実は空虚に、ただ巡る。巡る。巡る……。踊らされる。滑稽なダンスを。現実によって、他人によって、社会によって。
正直「もうこのサークルやめよかな」っていうマインド。誰かが言っていたように「居場所」ではある。ただ、「居場所」に染まってしまう自分がいる。自分はもはやここにいてはならぬと感ずる。陳腐な例えだが、環境によりワインが変化するのと一緒だ。俺は、俺は、この場所に染まりたくない。
あーあ。またこうやって冷笑的に人間たちを眺めている。斜に構えている。幸せになりたくば、なるがよい。俺は幸せに向いていないのかもしれない。ヘッセが決して安住の地を求めていても、彷徨するように様々な地を転々としたように、俺もひと所に留まっていられぬタチなのかもしれない。
そんなことをネットで呟いたら「冷笑・サブカル・文学」がモットーみたいな人に絡まれて自分にも冷笑的になる。結局俺は「冷笑の枠」から逃げられない。冷笑を冷笑し、その冷笑をさらに冷笑する……。冷笑冷笑冷笑……。うっせーよ。黙れよ。はあ、昼ごはんなに食べよう?
(編者注記:手記はここで途切れている)