大人になりたくないんだよ
大人になるのは、辛いことだ。嫌なことだ。苦しいことだ。大人になると、しがらみとか、背負うものとか、やらなきゃいけないこととか、増えてくる。でもそれが、大人になった証拠でもある。
大人になるときって、付き合う人が変わったときだと思う。環境とか、生活とか、そういう変化に伴って、人は変わっていく。たとえば、高校に入った、大学に入った、社会人になった、とか。
そういう瞬間に、自己に対する認識が変化する。つまり、自分はなにかという、自己同一性についての認識が変化する。そうすると人は、そのように振る舞い出す。ちょうど、「君は明るいね」と言われた人が明るい人のように振る舞うように。
こんなぐあいで、自分は一歩大人の段階に進むんだと認識した個人は、より大人のように振る舞い始める。それで、まわりが大人になったように感じた他者が、周囲が大人になったので自分もより大人になろう、というふうな認識を得る。さすればその人も自身が大人にならなければならないというふうに考えるのは自明だ。
こうして、集団は相互作用の中で大人になってゆく。
でも、僕は思う。大人になりたくないやつだっているじゃないか、と。誰だって大人の社会でうまくやれるわけじゃない。大人の社会というのは、傷つけることを是としない社会だ。いや、より正確には、傷つけるおそれのある行為すら排除する社会だ。つまり、調和を重んじているわけだ。
これは、他者に傷つけられたくないから、相手のことも傷つけない、という考え方だといえば聞こえはいい。でもじっさいはそうではなく、信頼というものが抜け落ちているだけだと思う。
すなわち、傷つけられないために傷つけ(ようとし)ないのではなく、この程度では相手は傷つかないだろうという信頼が欠落しているだけだ。言い換えれば、現代においては、他者を信頼しないことが、他者に傷つけられないための保身となっている。
たしかに、「渡る世間は鬼ばかり」、「人を見たら泥棒と思え」とは言う。ときにそれは事実かもしれないし、現代はあまりにも人を信頼することへのリスクが大きい。
ただ、それでは私たちはどうやってこの心にある生来の穴を埋めれば良いのか。その場しのぎの友情、付き合い、身体的接触……これらはすべて一過性のものである。僕たちは真なる信頼のもとでなければ自身をほんとうの意味で満たせない。
さて、話を戻そう。ここまで、大人になるのはどういうときか、そして、大人になるとはどういうことかについて書いてきた。それを通して、やはり、信頼というものが人間関係の鍵になることがよくわかると思う。人間は他者を信頼——もっとわかりやすく言えばその人はこの程度で傷つかないという確信、あるいはその人ならこのくらいのことは許してくれるという確信だ——することで、自身の穴を埋めていける。そうでなければ、人生はその穴が満たされたように見える一瞬と満たされないその他の時間を繰り返すものになる。
大人になるとは、結局信頼できなくなることかもしれない。けれど、僕はいつまでも高校生のような、無垢で純粋な信頼が——それが多少痛々しくとも——できる人間でありたいと、ずっと思っている。