卒園式に思う

子供が通う幼稚園の卒園式があり、ありがたいことに2名まで出席できることになったので、出席してきた。
誰も休むことなく全員揃って卒園できたのは、とてもいいことであった。

自分は幼稚園に通ってはいたが、卒園式には出られなかった。なぜなら自分はその時期、入院を余儀なくされていたのである。

今もそうと思うが、多くの幼稚園では2月に何らかの発表会があると思う。
自分が通っていた幼稚園も2月中頃に発表会があり、自分も普通にピアニカを吹いていた。
その翌日、おそらく振替休日の日である。手足の先に、紫色の斑点が現れた。なんだろうと母がかかりつけの小児科医に見せたところ、すぐに近くの大きな病院に行くようにと紹介状を書いてくれた。病院に行ったところ、その場で入院が決まったのである。

紫斑病という病気であった。

血液内の血小板が減少することにより内出血状態になり、紫色の斑点が現れるものである。原因がよくわからないためか、難病にも指定されている(このおかげで医療費の助成があり、自己負担額がかなり軽減されたと親から聞いた)。

治療法は特になく、安静にしていることが第一らしい。なので入院中はベッドにいるのがほとんどだった。また血液系の病気であることから、血液検査をほぼ毎日していた。
血液検査というのは、要するに注射である。ほぼ毎日注射を打たれていたわけだが、痛みで泣くことは1回もなかったとのことである。その後の注射でも泣いたことはないが、このときに散々打たれまくったことも一因かと思っている。

注射といえば点滴も打っていた。こちらは血液検査とは違い、痛かったことを覚えている。だが、自分はこの点滴だけで何日か生きていたことがあるので、点滴には感謝せねばならない。

入院して最初のうちは大部屋で病院食を食べていた。しかし、あるときから食事が食べられなくなった。
病院食は決しておいしいものではないので、それが嫌になったのかもしれない。そして、食欲も湧かなくなった。
出された食事は母が代わりに食べていた。それがバレて、自分がここ数日ロクに物を食べていないことも分かってしまった。

自分は個室に移された。

今思えば、この時期が最もきつかったのだろう。胃腸の負担を考慮して、お粥よりさらに薄い重湯の摂取から始めることになった。もちろん点滴もしながらだ。そのうちお粥になり、病院食の半分になり、点滴が取れ、大部屋に戻れることになった。
大部屋に戻ってみると、同じ病気の子がいた。その子は自分より一歳上で、同じ時期に退院することができたが、予後はその子のほうが大変だったようである。

紫斑病の症状の一つに尿蛋白がある。腎臓機能がやられて蛋白が尿に混ざる事象が起きると、退院後も頻繁に通院が必要になる。自分がそうならなかったのは不幸中の幸いだった。

大部屋に戻れた頃、幼稚園の先生たちが来てくださった。そして、大部屋でささやかながら卒園式が催された。

これが、自分の卒園式の全てである。入院中の1ヶ月間、幼稚園の誰にも会うことはなかった。3月頭にあったはずのお別れ遠足にも行ってない。その結果、別の小学校に通うことになった子とは2度と会わないままになった。

自分にとっては突然の別れになってしまったから、子供にとっては日々別れが近づいてくる心象がどのようなものか興味があった。
だから前の日にもいろいろ聞いてみたが、なんの感想もないようである。卒園式当日も、終了後に友達と追いかけっこして遊んでいた。
一部の子とは2度と会わないかもしれないのに。

親の心子知らずである。

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