クマさんのぬいぐるみ
「今の世の中、多様性の尊重と言いながら、出る杭は打たれてしまうの。
だから、トゲがなくて害もないのっぺりとした人間しか出てこないのよ」
そう言うと、彼女は大きな大きなため息をついた。
「どれだけ見てくれで個性を表現しても、中身はスカスカのハリボテなのよ。とんがった考え方をもつ人間が見せる鋭利な刃物のような目線だったり、主張を貫く強さがにじみ出た声色こそが、外面でもわかる本物の個性なのよ」
居酒屋の店内には、まだたくさんの客がいて騒がしい。
主張の強い彼女が出す声は、周囲にかき消されてしまっている。
「アブナイ香りがする変人や奇人が煮詰めた独自性や、あまのじゃくで偏屈な着眼点こそが重用されるべき個性なのに。そんな個性が萎んで消えていってしまうような社会にしておいて、なにが多様性の尊重よ!」
彼女は声を荒げて、日本酒を飲みほした。
「わたしの家にあるクマさんのぬいぐるみが、"1日だけお試しで人間になりたい"って言って、嬉々として人間になったとしたら、どんな1日を過ごすと思う?その人間になったクマさんは、おうちに引き籠ってないで、いろんな人間とお話するでしょう?色んな人とお話して"どんな人がいるのかなあ"ってわくわくすると思うの」
僕は彼女の家にいるクマさんのぬいぐるみを知らない。
「なのに、いざ、人間と会ってみてびっくりするわよ。だって、どいつもこいつも中身のない人間ばっかりなんだもの。誰とお話したって、クマさんが目を輝かせるようなお話なんて出てこないんだもの」
「何が面白いかなんてクマさんのお好みにもよるのだろうけど、
自分の生き方や社会の在り方に対して、自分の考えをクマさんにお披露目できる人間があなたの周りにいる?」
僕の目の前にいるのだが、おたくのクマさんはよくご存じだろう。
「私はね、クマさんはぬいぐるみのままで居た方が幸せだと思うの。
人間って、どんなことを考えて、どんな人生を歩むのだろう。
って想像を膨らませて、わくわくしているクマさんの方が、よっぽど人間に近いんだから」
「そうそう、だからね。逆に人間は、1日だけお試しでクマさんのぬいぐるみになってしまえばいいのよ。
そうすれば、膨大な情報に飲み込まれることなく、くだらない社会に順応しようとあくせくするわけでもなく、
自分自身と向き合って、自分は何を考えているのか、自分は何がしたいのか。色々と考えることができると思うの」
酔っぱらった彼女は、いびきを立てて眠り出した。
深夜、埋没してしまった無数の個性に捧げる。ひとりで乾杯。