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全社員に配布した資料の一部を公開します(#2)

2020年に初開催を予定するもコロナで延期となった経営計画発表会。くらしケアの集いという名称に変えて2023年、ようやく開催できました。
そのときに配布した資料の一部を公開します。
創業者目線での思い、創業当初の様子など、新しい社員、若い社員にも知ってもらえたらと書いたものです。少し長くなるので、3回に分けて公開したいと思います。あいにく文章力がなく、たいへん読みづらいかもいしれませんが、もしよかったらお目通しください。


2.くらしケア1年めの様子

同年10月、社名をくらしケアへ変更。2016年2月1日の開業を目指すことにしました。事務所は岐阜市の田舎にある小さなカフェ跡地。何度何度も事業計画を書き直し、1,000万円を借金で調達。自己資金を合わせて1,500万円でスタートしました。

当時の事業計画書には①放課後等デイサービス(障がい児の保育、預かりサービス)②三障がい向けの訪問看護事業(身体、知的、精神障害)③居宅介護支援事業(ケアプラン作成。ケアマネ事業所)④特定相談支援事業(ケアプラン作成。障がい者相談支援事業)⑤住宅の支援(相続、不動産賃貸、空き家活用、周辺ビジネス)と5つの事業を想定。最終的に人が確保できず①と③はあきらめました。

事業開始のため一緒に働いてくれるナースを探す必要がありますが、給料など待遇を決めなければ話しができません。求人情報の給料相場はとても払えそうもない。予算的にも正看護師25万円、管理者は30万円が限界でした。給料とは別に額面の15%の社会保険料を会社負担する必要や、交通費や電話代、自動車、保険、その他様々な費用がかかります。そしてとにかく1年以内に事業を軌道に乗せなければなりません。
幸いキャンナス岐阜(全国ボランティアナースの会。詳細は長くなるので割愛)で一緒に活動してくれていたナースの中からこの条件で引き受けてくれた方が見つかり見通しが立ちました。
※追記 ちなみに私は無給でスタート。もらえるようになるまでに一年半ほどかかりました。

事業を始めるための許可申請も必要です。訪問看護、相談支援、居宅介護支援、3つの申請書が必要で、12月の岐阜役所最終開庁日までに書類を受理されなければなりません。実は、書類作成は、あるコンサルタントにまかせていたのですが、作成がまったくできていないことが判明。しかたなく自分たちで作成し、岐阜市役所にも迷惑をかけながら書類作成を行い、12月28日の市役所最終営業日にギリギリ受理していただきました。

しかしこれだけでは終わりません。1月5日から社員を迎えて準備が始まるからいろいろ決めておかなければなりません。営業時間、訪問車輌、駐車場、ロゴ、名刺、看護記録は紙?電子カルテ?制服は?洗濯機は?携帯電話は?社会保険は?雇用契約書は?契約書や重要事項説明書は?それら書式は?とにかく決めることだらけ。名刺だけは渡したいと12月28日にロゴが決定、その日のうちにデザインをつくり、オガワ印刷さんに無理をお願いして1月5日に間に合わせてもらいました。(ちなみにいまの名刺の基本デザインはこのときから変わっていません)
とにかく毎日毎晩、必死でした。

年が明けた1月5日に社員を迎え、1ヶ月の準備期間を経て2016年2月1日に正式開業。このとき利用者はゼロ。あいさつ回り(営業)するも「24時間体制じゃないステーションに紹介などできないよ」と困難に直面するなど出だしは絶不調。
勉強のつもりで参加させていただいた精神障害者家族会。売り込みをしても嫌われるだけなので(実際は売り込みしたいし焦っているが)、会場の撤収などのお手伝いしていたところ、自己紹介の機会をいただけることに。創業の思いを力説し、私の身に起きた過去の出来事や障害当事者であることを説明しました。「皆さんに勉強させていただきながら頑張ります」というような話をした記憶があるのですが、会場にいた1人の男性が利用を申し出てくれて初の利用者様が誕生しました。あの瞬間の感動はいまも鮮明に覚えています。

同時期には、訪問看護師が手分けして手作りのチラシを手にクリニックや社会資源を回ってくれ、少しずつ利用者様が増えていきました。壁に張り出した紙に利用者様が1名増えるごとにお名前を書いて喜び合いました。
当初は医療依存度の高い障害者を想定して事業をスタートしましたが、そうした方の紹介や利用は少ない一方で、精神障害の方の利用が増えていきました。

初めての売上は3月31日に入金された岐阜県からの公費2,067円です。しかもこの金額は請求ミス。レセプトのわかる者がおらず、自分たちで試行錯誤しながら請求業務を覚えました。一方で毎月100万円以上のお金が通帳から消えていく。お金の出入りの極端さに精神がついていけず寝れない日もありました。いまとなっては笑い話ですが息子が通う小学校の演劇で雨が降るシーンであり、「ざんざかざんざか降ってきた」というセリフが「残高残高」と聞こえるなど精神が病んでいた時期もありました。しかし社員総出の精力的な活動が実をむすび、ありがたいことに利用者様は増えていきました。

求人も開始しなければとハローワークへ出向いて鉛筆で原稿を書きました。(当時ハローワークの求人票は鉛筆で書くのがルール)、応募の反応がなければ何度も出向いて修正し、どうすれば応募が得られるか求人担当者に質問しまくりました。
あわせてブログやFacebookへ投稿するなど私たちを知ってもらうためなら何でもしました。

訪問看護師を採用したら車が必要です。だけどリース会社が3台目のリースを渋りました。「まだ早い」というのが理由でした。
しかし、せっかく応募があっても車がなければ困ってしまいます。
他社の訪問看護は古い車を使っているのをよく見かけていましたが、訪問活動中にもしこわれたら困るだろうと思ってたので、故障の心配がない車で気持ちよく訪問して欲しいと新車にこだわりました。
愛知県一宮市の車屋さんで未使用車2台を購入、5年ローンで契約してまかないました。さらに必要となった5台目はオカベ自動車さんと出会い、このときから車の安定確保が可能になりました。

同年12月、利用者様は目標の40名を超え42名。事務員1名、パートの看護師を含めてメンバー数は9名に。この時点で損益分岐点を超えることができ、小さいけどそれなりに会社らしくなっていき、怒涛の1年目はそんな感じで過ぎていきました。


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