父の個展を娘としてクリエイターとしてサポートして思ったこと
私の父は、書家だ。ただ、永年、高校の書道担当教諭として勤務していた彼は、「書教育者」と呼ぶのがふさわしい。
彼は10年ほど前「還暦のタイミングで個展をやろうと思う」と私に言った。当時、デザインを学んでいた私は「何らかの形で手伝いたいけど、さてどうしようかしら。」なんて絵空事を描いていたのを覚えている。
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2018年9月21日から25日の5日間。
地元・鳥取の"ギャラリーそら"と"ごうぎんギャラリーロビー"の2会場を使い行った「蔵多龍子書展 / クラタトシオ展 / 龍子の眼展」。
来場者は、5日間で総数1,150名。第1会場のギャラリーそらさんでは、毎日100名を超えた。ギャラリーそらさんでも、鳥取でも、書展でも、過去私が携わってイベントとしても、異例の数字。たくさんの団体が協力していれば、そんな数字を出すのは容易いことだろう。けれどもこれは、個人展だ。私達家族と父の協力者のおかげで成り立つ個人展。DMとなったポストカードは2種類作ってみた。展覧会の性質上、カラフルなデザインのものがたくさん持ち帰られた。制作した私としては、良いA/Bテストを見ていたようだった。
いろんな要因はあるけれど、個展前日に地元・日本海新聞さんに取材していただき、個展初日にB5サイズ大の大きさで紙面に取り上げていただいたのがとても効果的だったように思う。取材していただいた藤田記者、本当にありがとうございました。
個展が終わった26日も休みをとり、搬出のサポート。せっかくなので地元のフリーランスな友人たちに連れまわしてもらっていたが、疲労度が高く、終始グロッキー。酒を口に運ぶたびに「この10年が完結した」と思うことしか出来なかった。締め括りのような気分だったのは、もう1週間前のことになった。
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綴っておきたいことは、山ほどある。さらに、私は性質上、長文になりやすい。既にそうだ。
なので、そんな中で残したいことをこの場で綴る。
父がこのように「書」を生業としており、母も祖父達も、なんなら親戚筋を見渡しても教職に携わっている人間が多い環境で育った私は、自分の能力の低さ、劣等感を恨み、どこにも行けないように思っていた。根本には、見えない強固な壁がずっとある。
恩師と出会い京都に進学し、卒業後も京都で生活を送り、現在10年目。
たくさんの出会いと別れがあり、いろんな出来事があった。
とりわけ、「恩師の死」「自身の入院と手術」は、なかなかに大きなイベントだった。現在、元気で過ごしていることが何よりも穏やかで1番良いことのように思う。
芸術に素養が深い父の下で育った私は、いろんな物事を異なった角度でたくさん楽しんでいた。その中でも「デザイン」に興味を持ち、大学で学んだ。ただ、所属していたコースの性質上「何でもやってみたいし何かしらは出来る!」と好奇心のままに進むことを良しとする。自身の肌にはピッタリであったが、それは何者でも無い私を作り上げていた。
鳥取を出て、過ごしてきた時間は、たくさんの気付きがあった。それと同時にたくさんの迷いと喪失感があった。
「作るのは、好きで楽しいことだ。だけど、何が楽しかったんだろう。何が好きだったんだろう。誰のために何を作るのだろう。」
それを自覚した時、私の身体は声に出せない悲鳴をあげていた。私は休養を取らなければいけなかった。手術が空けた2月、雪の舞う鳥取の空を眺め「いつまで生きれるのかしらね」とボンヤリ思っていた。生きている喜びの「光」と空っぽの中を彷徨い続けている「闇」の2つが自分の中に常に同居しているのであった。
私がようやく父の個展に向けたサポートを出来るようになったのは、今年の4月から。この半年間、「父」という題材を通して、制作すること、つくることに向き合った。
自身の能力の低さを恨むのではなく、自分に出来ることで向き合い、行動する。そうすると新しい世界はたくさん見えてくる。私は、私にしか出来ない物語を紡ぐべきなのだ、と。
作品撮影に立会うために鳥取へ戻り、撮影現場をサポート。
DMとなったポストカードは、それぞれの意見があり、2種類作ることで落ち着いた。
232ページの本を装丁した。「出虚室雑記」というタイトルの「出虚室」というのは造語で、父が今まで過ごしたアトリエのような「書」や「芸術」の世界に1人浸れる部屋のことを指すのだと聞いた。
私は、今まで積み重なってきた力で、既に形造られたものをより良く魅せるように行動してみた。10年前、「過去」の自分からすると驚くだろう。
「クオリティはどうあれ、私は、誰かのために思いっきり手を貸す人間になれているんだね。」
より皮肉屋な「過去」の自分が笑っている。
準備風景の写真を見返すと、何とも穏やかな時間だったなぁ、と苦笑いしてしまう。それぐらい、たくさんの人が毎日来てくださって大盛況であった。
約36年ぶりになった個展には、父の学生時代の同級生や恩師達が鳥取県外からたくさん来てくれて、「人間は何歳になっても楽しめるんだな」といろんな表情をする還暦を迎えた父を見ることが出来て嬉しかった。
そんな中で今回そう感じて良かったなと思うのは、父の作品が楽しそうだということ。彼は「書」というか「芸術」が本当に好きなんだろう。クラタトシオ展での「文字」を題材にしたアート作品は、本人曰く「夏休みの工作」だが、「字で遊ぶ」、「墨で遊ぶ」という感覚で取り組んだ作品が並び、私を含め多くの鑑賞者に「こんなにハジけても良いのだな」と思わせる。
スタッフとして手伝ってくれた父の教え子から「蔵多先生って家ではどんな感じなんですか?私は高校での姿しか知らないから」と問われた。
「私は高校での姿は知らないけど、そうだなぁ。家では、"クラタトシオ展"に1番近いかもね。」と答える。平面上では分からない多面的な父がそこにはあった。
鳥取のカメラマン桜井 祥直さんにレセプションパーティーでの父を写真に収めてもらった。棋士・羽生善治さんに似ていると言われていた彼は、母と私に唆されて、自ら袴をレンタルして着てくれた。まんざらでもないようだ。
レセプションパーティーでも会期中でも父の娘としてたくさん声をかけられ、「素晴らしいお嬢さんですね。素敵な親孝行じゃないですか。」と言われるが、どうも腑に落ちない。
そんな中で、たまたま母が同席していた場面があった。「素敵なご家族ですね、奥さま。」と言われた彼女はこう返す。こんなニュアンスだった。
「そんなことないですよ。2人とも自由奔放。性質も似てるし本当に分身みたい。手がかかっちゃう。今回はたまたま、やりたい方向性が一緒だったから、手を貸しているにしか過ぎないと思いますよ。もちろん蔵多を手伝ってくれてるのは嬉しいけれど、あくまでもこの子が出来る領域で手を貸しているだけなんだと思います。もっと出来る親孝行なんてたくさんあるんですから、ね。」
全部言ってくれちゃった。最高の母を持ったと思う。父をパートナーとして選び、私と弟を産み育ててくれた彼女こそがキーマンなんだな、と本当に思う。
父と私は、必ずしも順風満帆な人生を送っていたわけではない。基本的にはわがままで、彼も私も身体に病巣が見つかり手術をしてる、壊れかけたこともあった。互いにこの個展のことをずっと気にかけてくれた故人がいて、この姿を見せることが出来なかった。
そんな私達を自由奔放に見守って、寄り添って、手を貸す時に思いっきり貸してくれたのが、この妻であり、この母なのだ。我々が真に感謝すべきなのは、彼女のように思う。
「あの時、あぁしとけばよかった。」と思う後悔ではなく、クオリティはどうあれ、お互いが元気な時に一緒の制作を父親と出来たこと、それを見守る母と弟と過ごせたことを楽しく思う。
身近な人を楽しませるのが一番なんだなぁ、と改めて思い、それを京都生活において懺悔する。もう少し意識を変えないといけない。今感じていることを大切にしなきゃいけない。
ただ、私はこの時間の中でいろいろ意識が変わっていった。今まで生きてきた時間の中で、いつ終わるか分からない限りある時間の中で、このような時間を持ち、多くのことを学べたことを本当に嬉しく思う。
恥じらって何も出来ないんじゃなくて、何か形に出来て良かったと思うサポートだったと。ここに綴り残しておきたい。
いただいたサポートで本を買ったり、新しい体験をするための積み重ねにしていこうと思います。