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芸術文化都市・倉敷を支える「あわい」の力〜倉敷本通り商店街、ギャラリー・メリーノと喫茶ウエダ〜

JR倉敷駅南口に降り立ち、天満屋側から道路を渡ると、倉敷センター街商店街の入り口があります。

倉敷センター街商店街入り口

アーケードに入って南に進むと、えびす通り商店街へと続き、いつも観光客が大勢並んでいる、とんかつの人気店「かっぱ」があります。

名代とんかつ「かっぱ」
倉敷で最も人が集まるところである。撮影時は閉店前で、入店待ちの列はなくなっている。

アーケードの屋根を抜けたところに、阿智神社の西参道入り口があり、そこから倉敷美観地区まで続いている屋根のない通りが「倉敷本通り商店街」です。

アーケードを抜けた先が倉敷本通り商店街である。その先が、倉敷美観地区になっている。
芸術文化ゾーン、倉敷美観地区の頂点に位置する大原美術館

ですから、倉敷本通り商店街は、倉敷の商業ゾーンと芸術文化ゾーンとの「あわい」位置しています。

「あわい」とは、あいだ、媒介、のことですが、とりわけ、境界が曖昧で、揺らいだり、せめぎ合ったりしているときに当てはまります。例えば、海と陸との「あわい」である波打ち際は、境界がはっきりしません。異界と現実界、彼岸(ひがん)と此岸(しがん)、自己と他者、空間と時間・・こういった二つのものが出会う場が「あわい」です*。

日本文化では、「あわい」の場が重要不可欠になっています。日本家屋には、屋外と室内の間に、そのどちらでもない、縁側があり、気楽な近所付き合いや接客の場になっています。農村では、山や森林と集落との間に里山があり、人の手が加わった豊かな生態系を形成します。あわいの場は、日本文化の懐の深さを支えています。

今回は2軒の老舗を通じて、商業と芸術文化という、日常と非日常・世俗と高尚・今と昔、とが出会う「あわい」に位置する、倉敷本通り商店街の役割を紹介します。

まず紹介するのは、岡山出身の総合芸術家、竹久夢二の作品を取り扱う画廊、「ギャラリー・メリーノ」です。

ギャラリー・メリーノ

元は、商店街で代々続く布団屋でした。先代の三宅 博・信一、ご兄弟が、夢二の作品を収集されたのが、のちに夢二専門の画廊を開く出発点でした。とりわけ、弟の信一さんは、岡大特美(現・岡山大学教育学部美術教育講座)のご出身で芸術に造詣が深い人でした。

竹久夢二ゆかりの展示施設は、両備グループ創業者、松田 基・氏のコレクションによる夢二郷土美術館が有名です。財界人であった松田氏は、主に、夢二の絵画や大作を収集されましたが、三宅兄弟は、松田氏と棲み分けるようにして、小作品や、本・雑誌の口絵や挿絵を収集されました。

兄の博さんが70歳になったのを機に、布団屋を閉じて、それまでに収集した夢二作品の展示をはじめたのが、ギャラリー・メリーノのはじまりだそうです。屋号のメリーノは、布団屋の時代に羊毛を扱っていたので、羊の代表的な品種メリーノから採ったのだとか。展示のみをする、いわゆる私設美術館だったのですが、三宅兄弟のユニークなコレクションは全国的に有名で、ぜひ譲って欲しいという熱烈な夢二・コレクターが日本中から訪れたと言うことです。

三宅 博さんの長女・清水繁子さんは、そのような父と叔父が身近にいた環境の下で、おのずと芸大に進学し、京都でご結婚されて、創作着物作家として活躍されていました。

三宅兄弟が亡くなった後、貴重なコレクションの多くが散逸してしまい、倉敷における夢二の重要拠点が潰えようとしていました。そんな危機的な状況に際し、清水さんが京都の家族から離れて“逆単身赴任”する形で実家に戻り、お店を再開されて、現在に至っているのだそうです。

夢二は、芸術や美術が一般大衆の生活に潤いを与えようにしたいと願って、いわゆる商品開発をしながら、創作に励んだ人です。清水さんは、そんな夢二の遺志を継いで、遺った希少なオリジナル作品を展示・販売すると同時に、コレクションをもとに廉価で手に入るポストカードやポスターを制作・販売されています。お店に訪れると、作品やグッズの見どころを、着物作家、あるいは、女性としての視点から独自に解説して下さいます。筆者は、清水さんからの耳学問のおかげでちょっとしたマニアックな夢二通になりました。

清水さんは以前より、地元の芸術的才能を発掘する目的で、「倉敷を描く ギャラリー・メリーノ コンクールを」を企画運営されています。また、廉価でギャラリーを開放し、地元の画家や造形家に作品の発表と販売の機会を与えています。
倉敷の窯元である羽島焼や天神窯の陶芸作家、および、倉敷ガラスのガラス作家へのサポートも、機会あるごとにされています。

小河原常美さんによる羽島焼のアクセサリー。
器のみから脱して商品開発されたもの。オリエント文明や南米アンデス文明の要素が取り入れられている。

清水さんご自身も、縫製作家として備後絣を使った工芸作品を制作販売されて地場産業に貢献され、また、抽象画家として作品を発表して、後進の芸術家を導かれています。

続いて、紹介するのは、“倉敷のモンマルトル”「喫茶ウエダ」です。

喫茶ウエダ

喫茶ウエダの食品サンプルの棚には、たくさんの調度品や雑貨が置かれています。

喫茶異ウエダの食品サンプル棚

エキゾチックな風情に惹かれて、マダムの上田京子さんに由来を訊いてみたところ、亡き夫とよく中近東を旅行し、その時に買い求めたトルコやエジプトやペルシャなどのオリエントの民芸品なのだそうです。そういえば、お店のテーブル・椅子セットも砂糖入れもアラブ風です。

大原美術館の基礎となる西洋美術コレクションの収集を担った児島虎次郎は、オリエント陶器のコレクターでした。虎次郎は、ヨーロッパに留学し、西洋絵画の研鑽を行いましたが、自らの創作のために、東洋への回帰もしていた、とのことです。倉敷・酒津にあったアトリエには、収集したオリエントの陶器が置かれ、そこからインスピレーションを得ていたのが知られています。その陶器コレクションは今、美観地区の倉敷考古館で見ることができます。

倉敷考古館
日本の古代土器のみならず、オリエント陶器や南米アンデス文明のコレクションも充実している。

倉敷考古館と喫茶ウエダは空間的に近いですが、それぞれ独自にオリエントとの結びつきがあったのでした。
倉敷考古館の芸術顧問をされているのは、児島虎次郎の孫にあたる陶芸家、児島塊太郎・氏です。塊太郎・氏はウエダの常連ですので、今は、氏を介して時空を越えた文化の結びつきが実現しています。

喫茶ウエダの店内にはジャズが流れています。メディアはCDですが、録音はLPレコード時代の古いものです。夫の趣味がジャズだったのだそうで、レジ横のスペースには、亡き夫の愛用したオープンリール・テープデッキやLPレコード・ジャケットが置いてあります。

マダムは子どもの頃、ヴァイオリンを習っていて、音楽の趣味はクラシックなのだとか。けれども、今でも夫の好きだったジャズをよくかけるのだそうです。店内にはアップライトピアノがあり、「倉敷ジャズストリート」の開催期間には、ジャズの演奏会が催されます。

倉敷ジャズストリートのポスター
今年は,3年ぶりに開催される予定である。

いつしか、お店には地元、倉敷・岡山のみならず、全国から音楽家や芸術家が集うようになりました。店内の随所にある絵画や陶器は、そうした人達が寄贈したものだそうです。有名どころでは、版画家の秋山 巌・氏、画家の若山 侑・氏の作品があります。

店内は様々な文化が積み重なって、うねる地層を形成しながら、まったりとした“ブレンドコーヒーの味”を醸し出し、居心地のよい空間となっています。それは、さながら、世界中から芸術家が集うパリのモンマルトルのようです。

さて、喫茶ウエダの由来は、長野県出身の上田夫妻が60年前に今の場所で写真館を開業されたのがはじまりです。きっかけは、マダムの実兄が航空技術者として水島に赴任されたご縁からでした。お兄さんはそのまま倉敷に定住され、マダム夫妻を倉敷に呼び寄せられたのだそうです。

ご夫妻が写真館を開業して10年ほどして、写真がモノクロからカラーの時代となりました。カラー写真の現像設備を揃えるのには大きな投資が必要だったので、ご夫妻はそれを機会に写真館を閉じて、夫が前からやりたかったカフェを開業したのがお店のはじまりだそうです。

もう夫は亡くなりましたが、80歳代のマダムは、今でも毎日お店のカウンターに立ち続けておられます。長女の、なおみさんがお店を手伝って、多くのウエダ・ファンのために親子でお店を護っておられます。

あわいの場所、倉敷本通り商店街は、このようにして大原美術館を頂点とする芸術文化都市・倉敷を支えています。


*安田 登・著:あわいの力 「心の時代」の次を生きる. ミシマ社.2014

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