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自分には友だちはいないと思っていたけど、ちがった……❣❣
もう、8年前になるけれど、自費出版で「かねさんのひだまり」という小説集をだすことができた。
その本は出版した翌年に亡くなった友人が「わたしね、あなたのおかあさんのおかしな話をいっぱい聞きたいのよ。ドラマ見るよりおもしろいんだもの」というひとことから始まった。
その話を母にしたら、「そりゃいいや、俺はおもしれえぞ」とノリノリの反応だった。
お金がない、といったら、二人が「出してあげる」というので、書くしかないということになり、書くには勉強しなければ、と小説教室に通うことになったが、先生は母の小学校の同級生だった。
嘘、みたいなほんとうのはなし。
かねさんは、本当に面白かったらしく、小説教室の葉山修平先生が主宰していた「雲」という同人誌に連載してくれて、その連載が「三田文学」の同人誌評に紹介されて、お調子者の私は自分には、文才があるんじゃないかと思ってしまった。
その連載をまとめて、「かねさんのひだまり」が出版されて、出版祝賀会を開いてもらって、母も、人工呼吸器を装着しなければ長時間の移動は困難だった友人の水本さんも、市川の会場まで来てくれてうれしそうに笑っていた。
そのあとで中学時代の友だちが集まってお祝いをしてくれた。
わたしには友だちがいないと思っていたから、10人も集まってくれたことがとても嬉しかった。
しかし、翌年の年始に水本さんが亡くなり、次の年の暮れに母が亡くなって、翌年の夏の終わりには、葉山先生まで亡くなって、私は何を書いたらいいのかわからなくなっていた。
仕方がないので、講座を探してエッセイ教室に通い始めた。
エッセイ教室は楽しかったが、達成感がなくて、そんなときに船橋文学賞のポスターを見て、角野栄子さんに会ってみたくて、童話の会に入った。
なぜなら、私は船橋市民ではなかったからだ。
でも児童文学は書いてみたら、思ったより、ずっと難しかった。勉強のつもりで読み始めた児童書は面白かった。
がんばって書くしかないのだ。