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スーパードライと呼ばれた女

以前に私をよくわかっている知人から、スーパードライと評されたことがある。その知人は多くを語ってくれなかったので、当時の私はどうにもピンとこなかった。

そんなに私は冷たいんだろうか。

絶賛はやく人間になりたい期だった私は、密かにそうやって傷付くだけで。その時は笑って誤魔化す事しかできなかった。

そんな出来事から数年経った今、私はその評価の確かさをしみじみと感じている。

要するに私は、何でも頭で考え過ぎていたのだ。

事実は事実なのだからと、平気で何でも口にしていたことが恐ろしい。論理的な結論はいかなる場合でも感情に勝る。論理こそが正義、当時の私の基準はそんな感じだったのだろう。

そうわかるのは、今の私が感情というものにも配慮するようになったからだ。それが何故かは今のところわからない。いつか考察したいとは思うけれど。

ただそうして、ある意味機械的な正確性を失って、人間らしく意見がブレるようになって。以前はそれを求めていたはずなのに、それでいいのかと今度は少し悩んでいる。

ズケズケと物が言えなくなった。よく言えば丸くなったで、悪く言えばなあなあ。

仕方がないと割り切れないことが増えた。

冷静な判断が出来ない。

果たしてこれは良いことなんだろうか。

あんなにも人間になりたいと思ってきたのに、人間になってみると迷って仕方がない。

確実に人としての魅力は今の私の方があるのだけれど、それが何になるのだという気持ちも出てきた。

それはきっと、未だ何者にもなれていないという焦りからなのだけど。

このまま人間らしく、普通に、なってしまっていいのだろうか。

悩みながら、誰かに問いかけたい気持ちでここへ吐き出しにきたけれど。何となく、書き出すことで纏まってきた気がする。

この違和感はきっと、持ち続けた方がいいもので、その両方を理解した上で、その時々に使い分けるのが一番なんだろう。物事には多面性がある。どちらかだけが正解ということもないのだろうと、極端になりがちな私はそう理解した。…結論付けた?そう、だと思います。たぶん。……どうなんだろう?

どちらがいいじゃなくて、どちらも知っていることがきっと、これからの私の強みになる。そう願いたい。








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