刀使ノ巫女~斬って結べその縁を。少女撃剣群像劇。2018年1月~7月
400年の長きにわたり荒魂と言われる異形のものと日本は戦いを繰り広げていた。この荒魂を討伐するのは魔を祓う御刀に選ばれた少女たちのみ。
少女たちはそれぞれ、伍箇伝といわれる5つの学園に所属し、国家公務員待遇で各地へと派遣されていた。彼女達は日本古来の流派を修め厳しい戦いを駆け抜けていく……よくある退魔もの、といってしまえば、それまでだ。だが、それで観ないのは実に惜しい。昔ながらの骨太の群像劇が展開し、90年代の夕方アニメ的な前向きな明るさと壮大な世界観が楽しい。
剣術の擬人化
主人公の衛藤可奈美はえらい危なっかしい剣術バカの子だ。共に御前試合に選ばれ緊張する友人の柳瀬舞には、楽しみだね、を連発する。「私とあたっても全力で勝負してね」という告白めいた言葉も聞いちゃあいない。試合では可奈美は舞の渾身の居合を封じ手も無く捻ってしまう。届かない。
試合を見ている親衛隊の二人も互いを見ていない。一席の獅童真希がみているのは、会話をしている二席の此花寿々花ではなく、実は最強をうたわれる四席の燕結芽。そして決勝、可奈美は十条姫和と対峙するが、なんと姫和は目を逸らし、伍箇伝を率いる折神家当主紫に殺到する。暗殺に失敗した姫和を可奈美はつれて逃走「なぜ助けた」に対し、「御前試合したかったから」である。視線が合わない。話の噛み合わない違和感。
刀剣乱舞は刀剣の擬人化であり、かつての持ち主との関係がクローズアップされる。艦これは軍艦の戦歴が性格へと転化する。刀使ノ巫女は擬人化とまではいえないが、それぞれのキャラクターの修める剣術が性格のメルクマールになっている。
可奈美は柳生新陰流の使い手である。相手の動きに応じて打つ、という理念を体現したかのように「よくみて、聞いて、感じる」戦い方をし、徐々にそうした性格が発揮される。また対戦相手の技を短時間で盗み取り活かしていく。使う千鳥は雷切という異名を持ち重要な伏線となる。
嫁、ヒロインの十条姫和は神の剣、塚原卜伝が鹿島新富流であり、いささか堅苦しく激しい性格でぶれず正義を貫くことを至上とする。鹿島神宮に祀られている建御雷が伏線となる。使うは小烏丸。
アイオワ、じゃないエレンはタイ捨流で奔放かつ、刀に囚われない格闘術を駆使する。科学者の孫娘である彼女はある意味、刀から客観的な戦いを展開する。
エレンの相棒の薫は毒舌家で一撃必殺を体現する巨大剣ねね切り丸を使う薬丸自顕流であり、二人はツーマンセルで凸凹コンビとして戦い、私生活でもそう振舞う。
親衛隊一席の獅童真希の神道無念流の小手先を嫌う傾向は直情径行さを現し、2席の此花寿々花は鞍馬流の使い手で変幻自在、髪をくるくるする癖は剣先を巻き上げる技に通ずる。
四席の天才燕結芽は超実戦的といえる天然理心流で沖田総司を思わせる。
中ボスの折神紫は宮本武蔵の二天一流。なぜなら、可奈美の千鳥と姫和の小鴉丸、二人の二剣を相手にする、超えられない壁、強敵でなければならないからだ。魔界転生の柳生VS武蔵にかけているのかもしれない。そして剣術(キャラクタ)による立ち合い(関わり)こそ、対話であるということが示されていく。
熟女の視点
刀使の巫女では先代ヒーローである五学園のアラフォー学長たちの視点がある。主人公の可奈美や姫和の母の戦友たち。
自分たちで指揮をとり伍箇伝を正さねばならぬという使命感。上に立つ者の辛さ、権力をもったがゆえの責任感、敵側につく学長たちの、認められないがゆえの野心、歪んでいるが純粋な希望などもしっかりと描かれる。
20年前、死地に送り出され今度は可愛い大事な教え子、奇しくも夭折した戦友の娘たちを送り出す側。行くのも辛いが行かせるのはもっと辛い。「無茶する子らの面倒みる」という支援側からの視点がある。
視聴者が、送り出す母親、教師の気持ちとして共感させる。主要キャラのチームをいい子たちだ、武運を祈る、幸せになって欲しい、そう思える視点だ。
ま、それはともかく、タイプの違う熟女たちの色とりどりの競演を楽しむというのもありと思うが(笑)
神話の海
神話を意匠としているためメタファが作品に横溢している。特に名前が示唆している。可奈美(可能性の大きい)のネガとしての結芽(夢、芽のまま結すであらかじめ死の定められたポジション)。
姫和(姫と和すイシキシマヒメとの融合)のネガとしての夜見(黄泉。姫和のような力は得られないで半荒魂化)など対になる。キャラクタがメタファそのものなのだ。
レジスタンス組織舞草の批判する集中合祀は明治→太平洋戦争の国家神道(ノロの兵器化)の暗喩である。
またラスボスとして登場するタギツヒメ、イチキシマヒメ、タヒリヒメの宗像三女神は海の女神であり、江ノ島にも祭られている。そのため作品には水の気配が濃厚に漂う。潜水艦、湾岸、海辺の風景……。
また9話、里に入る際、一度、湯に浸かり祭りを楽しむため浴衣に着替え、再度戦闘服である制服に着替える。これは禊を暗喩する。新たに抵抗組織舞草の一員となるという儀式である。
エレンの祖父はフリードマン教授という荒魂の研究家、ストームアーマーの開発者である。アメリカという他者の目がある。フリードマンは経済学者だが、仮名のファインマンは、ご冗談でしょうファインマンさん?か。
物語に関わる唯一の男性であり少女たちを見守り導くガンダルフのような老賢者の力を表す。面白いのは日本の荒魂を外国人がもっともよく分析し捉えている点である。ドナルド・キーンを思わせる。
そしてなにより珠鋼から引き剥がされ、孤独感を抱えたノロが凝固し荒魂となって暴れるというその様は、正に伝統と歴史から引き剥がされ日本人としての在り方を忘れ、連続性から断ち切られ闇の中、グローバル社会に放置された孤独な我々そのものではないか。
作中では荒魂を討伐するために御刀があるのではなく、逆に御刀を作り出す課程でノロ(実際に刀を精錬される課程で出る余剰をノロと呼ぶ)が生まれ、それが凝固し荒魂となる、という逆説的真実が語られる。
無窮の力である御刀を得るため人間が玉鋼からノロを引き剥がした。ノロの穢れとはなにか、それは珠鋼から引き剥がされた寂しさ、孤独感であるという。
その極限が人にとりつき、人型となった大荒魂タギツヒメである。穢れとは孤独であり御刀で切る、ということは祓うことを意味する。
そもそもなぜ、祈る者である巫女が刀を手に祓わなければならなかったのか。巫女とそれに仕える少女剣士の方が自然ではないか。刀使の戦いは厳密な意味での闘争ではないからである。刀使とは荒魂を切るでも祓うでもなく、剣技を供物として奉納することで鎮めていたのだ。
立ち合いが、対話であり鎮撫だった。
立ち合いは神楽や剣舞である。
9話の里の祭りでの長船の少女たちの剣舞こそ、本来の刀使の姿なのである。
最終決戦、「刹那の永遠に我を楽しませるか」と叫ぶタギツヒメに対し「私が楽しいんだよ!」、と答える可奈美。
日本の神道を神と共に楽しむという祀り、祭りと示した折口信夫の言葉がここに蘇る。9話のノロを分祀し慰める里の祭りと重なる。
この物語はタギツヒメの物語でもある。タギツヒメは数百年後に和御魂として戻ってくる、みなで祀ろうという朱音のセリフには神道の思想が示される。禍神、荒魂という幼稚な、孤独のあまり世界を壊す、実体を持つ限界のある祟り神が巫女の剣舞を喜び楽しみ真の神として現れる。
だからこそ最終話は結びの巫女→ムスビ(産霊)の巫女なのである。ムスビを、折口信夫は「魂を込めることによって物そのものを育み、かつ魂も成長させる。結合して発育させる」と定義した。
人と違い命の輪から外れ、受け継ぐ力がなく擬似の死を怖れている荒魂の集合体が神を名乗っていると、タギツヒメを喝破する姫和だが、神こそ人に魂を込められ育まれねば神たりえないのだ。
「見なかった」タヒリヒメが可奈美を「見る」時、真意を「言わなかった」イチキシマヒメが姫和に紫を助けたいと「言う」時。
そして、「親子二代同じ結末か」と嘲るタギツヒメに「不思議な縁だね」と返す可奈美の縁という言葉を「聞く」時。
大荒魂は、禍神は、化け物は「縁」あってカミへと変わるのだ。
母たちの戦友、タギツヒメがとりついていた紫も正にその名の通り緑である。20年前の時点で篝を犠牲にして「祓う」ことに成功してしまえば、可奈美と姫和は生まれず、タギツヒメもいずれ和御魂になるチャンスを失っている。
見ようによれば不始末を重ね同じような戦いを三度しているだけ、ともとれるが、これは誤りである。過去は現在であり、未来である。能は役者を替え再演される度にそれは過去であり現在の物語となる。
神楽もその度に神が現れる。
そもそも本当にタギツヒメたちは大荒魂で神を名乗る怪物に過ぎないのだろうか。否である。あの三神は融合したり分離したりしながら、やがてあらわれ、かつ過去に存在する真の宗像三女神だ。
荒魂は不完全な神であると同時に神のもう一つの顔なのだ。かくり世においては必ずしも時間の因果関係が過去→未来へ向かうとも限らない。時間は直線ではない。
タキリヒメとの立ち合いで大きな海を感じた、と可奈美が言ったように海や航海の神である、宗像三女神は沖ノ島に、江ノ島に今も祭られる。過去と未来の神が三つの顔を持つタギツヒメ、タヒリヒメ、イチキシマヒメなのだ。
物語中の三神はそれぞれ、祟る神、支配する神、融合する神と神道のカミとは異なる。
それぞれ原始の祟る存在、人の世を教化し導く儒教的存在、高次元の存在へと解脱へ誘う仏道(イチキシマヒメの持つ数珠丸は日蓮上人の剣とされる)をイメージさせる。
国譲りの神話のオオクニヌシの妻であるタキリヒメは出雲の社をイメージさせる防衛省の地下に鎮座している。またタヒリヒメを吸収したタギツヒメは、一度はイチキシマヒメと融合した姫和に倒される。
これは建御雷がオオクニヌシに武威で国譲りを迫った神話に重なる。(実はアマテラスは雷の神であり、日の女神としたの持統天皇であるという説もある。武御雷はその名残ともいえる)。
タギツヒメのタギツとは滾るという巨大な水の流れを表す。そしてタギツヒメは元来、瀬織津姫であるともいわれている。この瀬織津姫はイシュタルを源流とする古い神でニギハヤヒという日神の妻であり、アマテラスはヤマトが二神を融合させて日の女神として作り上げた、神話を簒奪したとも言われ、またさらにアマテラスの荒御魂(!)ともされる。
そう、タギツヒメは神話を奪われた孤独な女神である。(記紀神話に名前が無いことから、こんなカミがいてはならぬ、と禍神、狂神とされる文書もあるという!)。
さらに宗像三女神はスサノオから発生したというよりアマテラスの娘であるという部分にこそ注目しなければならない、とされる研究もある。アマテラスの影にして娘。
ラスボスにタギツヒメの名を与えたのはまことに奥深い意図があるといえよう。
可奈美が夢の中で美奈都と立ち会っていたのは神社の前である。霧につつまれたその姿は最終話にはっきりとその相貌を現す。そう、この社ははじめから、タギツヒメらを祀る社だった。
過去にして未来のカミ。
オオクニヌシは国を奪われ祀られる。菅原の道真公、平将門、崇徳上皇。恐るべき怨霊こそ祀られ慰められカミとなる。それだけでなく由来の定かならぬ人々を祟る存在が、なぜか祀られ、そのうち村を守護する神となり、本来禍をもたらす者が守護する者となる……そうした伝承の多いことを想起させる。
スサノオの十握の剣から生まれた宗像三女神はもとは江ノ島と共に沖ノ島に祭られており、海や交易(対話)の神であると共に、大陸よりの外敵から我が国を守護する剣の神であると言う説もある。
大いなる和。
神もまた縁の中にある。親子二代にわたる戦いは巫女による神楽剣舞、ムスビの儀式だった。
三という数字もキーワードになる。宗像三女神が三人の巫女(美奈都、篝、紫)(可奈美、姫和、紫)×2の三度の戦い=神楽=儀式を経て顕れる。
三という数字は三種の神器であり、また古事記の中心の三人の神、アマテラス、スサノオ、オオクニヌシを示している。かくて穢れ、孤独は掬ばれカミは顕れる。
絶対の邪悪などない。討ち滅ぼすのではない。穢れを祓えばカミとなる。言祝げ。終わりなき世のめでたさを。
桜舞い散る中、隠り世、冥界よりイザナギの如く帰還した可奈美と姫和。
カミと人、共に楽しまん。縁による日本神話の原型が刀使ノ巫女に込められている。
「半分もつ」という理念
「半分もつ」姫和が母の復仇、私怨と正義のため紫を討つと明かした3話。可奈美は「なんだか重そうだね、半分もつよ」と軽く返す。この「半分もつ」は周辺、敵味方を超えてすべてにいきわたる。
主要パーティーは無論のこと、親衛隊の獅童と此花やイシキシマヒメと紫、紫と美奈都&篝など。ほぼ全てに。直接的な掛け合いは少ないが、ポジの可奈美と姫和に対し、ネガの結芽と夜見も半分もつといえる。
二人で一組ではなく、ちょっと荷物を肩代わりする。「絆」よりいい言葉だと直感する。
軽やかで距離がとれていてなんとも気安くでもしっかりとした責任の重みも感じる。
この「半分もつ」を軸に血縁だけではなくたくさんのキャラクターが網の目のように関係性を張り巡らせている。小さな設定やエピソードが生きている。構造的に優れている。
なぜ、半分もつのか。それは彼女たちが孤独を人一倍感じているからだ。荒魂と「こころのかたちがにてる」のだ。
母との不条理な別れを経験した可奈美、姫和は、ある意味、珠鋼から引き剥がされたノロ、荒魂的存在でタギツヒメと引き合う。そう御刀が刀使を求めるように、刀使が御刀をもとめる。珠鋼に抱かれたノロ、分詞されて祀られるノロは母に抱かれた子のように穏やかであるとされる。
二部、可奈美は誰も彼女と戦おうとはしないほど強くなってしまった孤独と母を失った二重の孤独に陥っていた。刀使は寂しさや、孤独感、渇望感に荒魂同様、敏感な者でないと御刀に選ばれないのかもしれない。
最終話、可奈美の異常な剣への執着、奇妙に明る過ぎる大人びた性格は母を追いかけていたゆえとわかる。
夢の中で立ち合った師匠とのついに立ち合い、免許皆伝。ムスビは剣術に込められた。
はじめてお母さんと呼び号泣する可奈美。対して姫和は紫を討てという母の呪いが解け語り合う。二組の異なる母娘。剣が媒介で響きあう小鴉と千鳥。母と離された可奈美と姫和はある意味、荒魂だった。だからタギツを鎮められたのだ。
振り返るなと励まし、かくり世にタギツヒメと残る17歳の時の母たち。ノロの導きで仲間の待つ現世へと羽ばたく二人。少女たちが大人の女性へと成長する通過儀礼なのだ。
巣立ちと親離れ。この物語自体も、美奈都世代と可奈美世代で「半分もつ」話だったと明かされる。母娘ものという古典が新生した。全キャラクターを肯定することで爽やかな大団円へと導いている。ムスビであり、穢れ=孤独を祓ったのだ。
あやまった道を己の選んだ道として、誇りをもって死んでいった者たちも全力でその生を駆け抜けていったと全肯定する。桜舞い散る中、隠り世、帰還した可奈美と姫和。
桜の下、死者を想う親衛隊の獅堂と此花。それは爽やかなもののあわれだ。日本的な生の充実であり謳歌が堂々と語られる。神話は結実する。
キャラクター対置、エピソード反復の妙
キャラクターは物語に配置され、その構造上で相互作用して活かされている。楽しさ=対話を象徴する剣の可奈美に対し、復讐と義務の厳しき剣を象徴する姫和。
荒魂ねねを連れ荒魂の共存との形を象徴する薫、縁の体現者である中ボスにして導師となる紫、報われない歪んだ忠誠を現す高津学長と同じく歪んだ夜見。
同時にばら撒いた伏線の回収のスケールと細かさに瞠目する。半分もつという伏線の回収を最終話で見事にやってのけるのは無論、細かい無用と思えるチョコミントネタやほとんどギャグのようなメタ発言、薫の「ラスボスは倒されるもんだぜ!」に対しタギツヒメの「お話の中だけだ。これは現実だ」が実際にタギツヒメは倒されず祀られるというエンドに繋がるなど枚挙にいとまが無い。
さらにエピソードは反復されることによって重層化される。可奈美と姫和の逃避行は二部の紫のイシキシマヒメの逃避行と重なる。
潜水艦に乗り込むのは一部は舞草のリーダーの朱音だが、二部はかつての中ボスの紫だ。
沙耶香が剣によって可奈美に教えられた「そんな思いのこもっていない剣じゃ何も切れない」は二部の歩に対して沙耶香が繰り返す。
一部の〈毒親〉高津学長との沙耶香の決別は、二部の高津に対する夜見の忠誠、ノロを受け入れて強化した親衛隊の挫折と道具としてのタギツヒメ近衛隊……あらゆるところに反復される。巡礼は物見遊山ではなくかつての奇跡を宗教者の旅路を追体験してなぞることにより、再演として己がものとする行為である。
中ボスの紫を倒した可奈美の技は母の技を憑依芸として無意識に演じた。母の再演こそ、紫にとりついたタギツヒメ最大の弱点であることを無意識下に見抜いていたのだ。前史のあとを継ぎ、因果によって物語られる。刀使ノ巫女では対置と反復による作劇の基本、気付き、妙が活きている。
私たちは日本語を使う日本人である。やはりなんとなく絵本などで日本の神話を知っているという懐かしさがあり、同時に逆に古来からの文化であるゆえのエキゾチックさがある。
巫女も同様のキャラクターモチーフである。犯しがたい神聖さ、凛とした美しさと共に、祀り祀られるもの。捧げ捧げられるものというエロティックさがある。
古きものこそ真に新しい。
刀使ノ巫女は制服少女という最新の装いを凝らした、その系譜を継ぐものとして現れた作品として位置づけられる。
※完結当時に書きました。また見直すと新たな発見がありそう。
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