他人のような祖父だったけれど
「家族愛」がテーマのあらゆる作品が苦手、とまではいかないが視聴前は必ず身構えてしまう。私と家族との関係はするすると滑らかなものではなく、だからといって殊更に悪いというわけでもなく。ただ、家族ひとりひとりとの関係は、ところどころ毛羽だって毛玉がついたコートのように手触りがあまりよくない。大事なコートだから捨てることもできないまま、クローゼットの奥に静かに寝かせてある。そろそろ毛玉と向き合わねば……と引っ張りだしてきては、うーん、と少し考えて、また明日でいいやと元の位置にしまいこむ。そんなことを何年も何年も繰り返してきた。
そんななかで、最近母方の祖父が認知症を患った。症状の進行がとても早く、自分が朝食をたべたことを忘れたり、外に出かけて帰ってこないと思ったら2キロ先でのんきに笑っているところを保護されたり、免許を返納して車を手放したことを忘れて車の鍵を家で探し回ったり。孫の私のこともそのうち忘れてしまうかもしれない。
そうなると、さすがに私は毛羽だったコートを放置するわけにもいかず、「母方の祖父」のコートをクローゼットの奥から引っ張り出して、あぁこの毛玉をとってやらねば……とハンガーに吊るしたそれを見やる。毛玉はとても大きくなっていた。実は最初母親に「おじいちゃんが認知症だからあんたたちのことも忘れちゃうかもね」と言われたときは、意外とそこまで大きな衝撃を受けなかったのだ。もしかすると、努めてそのような態度をとっていたのかもしれない。そうやって今まで見てみぬふりをしていた毛玉は今こんなに大きくなってしまっている―――日に焼けて浅黒い顔でニカッと笑う祖父の顔。思えば、母方の祖父は私にとって「他人のような祖父」だった。
祖父は交通の便がいいとは言えない田舎に住んでいるので、幼い頃から会えるのは年に1回ほどの頻度だった。お盆か正月のタイミングで船に乗って海を渡り、祖父の住んでいる県へと向かう。祖父はいつも船着き場に真っ黒なワゴン車で駆けつけて、船に乗った私たちに大きく手を振ってくれた。祖父の家は港からさらに山のほうへ移動したところにある。設計から建築まですべて祖父が手掛けた自慢のログハウス。そこに集まって食事をするのが恒例だった。祖父はいつもにこにこと穏やかだったが、年に1回の頻度でしか会わないとなると、私自身の人見知りする性格もあってどうしても緊張してしまう。会うたびに「はじめまして」のような気持ちになり、いつも何を話せばいいのかよくわからなくなった。きっと祖父は私の話すことであればなんでも喜んで聞いてくれただろうに、私はいつも他愛ない話すらうまくできずに、祖父から聞かれたことにただ答えるだけの子どもだった。祖父は耳が悪く、大きな声ではっきりと話さなくてはいけなかったため、ひどい話だが幼い私はそれを少しめんどくさく思ってしまっていたのかもしれない。だから、私は祖父との会話の内容をほとんど覚えていない。そんなわけない、何か一つは覚えているだろうと頑張って思い出そうとするけれど本当になんにも出てこないのだ。こうなってくると、私にとって血の繋がったおじいちゃんであるはずなのに、気持ちの部分でいえばまるで他人のようなのだ。それはもう今となってはどうにもしようがなく、これだけさっぱりと言い切ってしまっているけれど、しかしたしかに私の中では「毛玉」として存在しているのだった。
現在の祖父はあらゆることを忘れつつあるけれど、ふと「俺の孫はどうした?」と言い出すのだという。覚えているのだ。まだ。私のことを。ただ、それもやがて薄れて、ぼんやりと、霧のように消えていくのか。あるいは、ある日突然パッと消えてしまうのか。祖父のニカッと笑う顔を思い浮かべる。祖父が薄れゆく記憶の中で最後まで覚えている「孫の私」はどんな姿なのだろうか? 仕草は? 交わした会話は? どうしようもない私は祖父との会話をまるっきり覚えていない。けれども、祖父はきっと忘れるその瞬間、最後まで私の存在を、仕草を、交わした会話を覚えているのだろう。
どうしてあのとき。もっとこうすれば。こうしていれば。そう考え始めればキリがない。もっと私がうまく話せれば。余計なことを気にせず、考えずに、祖父とちゃんと話せていれば。年に1回とは言わずもっともっとたくさん会いに行っていれば。思うことはたくさんあるが、もう何もかもどうしようもないのだ。
いつも私たち家族が乗った船が港に着いたときに、船着き場に待ち構えて嬉しそうに大きく手を振ってくれた祖父の姿は今でも目に焼き付いている。きっと、その姿ももう二度と見ることはできない。