はじめて友だちに「死ね」と言った日
はじめて誰かに「死ね」と言ったとき。 それは「死ね!(笑)」だったかもしれないし、「死ねよw」だったかもしれないし、あるいは「……死ね」「死ね!!」だったかもしれない。
だが、普通、人に「死ね」とは言ってはいけないのだ。小学生のときに読んでいた漫画ではどのキャラクターも惜しみ無く死ね死ね言いまくっていたけれど、現実で「死ね」と言うのはダメなことであると、教室で誰かが「死ね!」と言うたびに担任の先生が教えてくれた。それを見てみんななんとなく、あっ死ねってそんなに軽く言ってはいけないんだ~ということを学んだりした。
かくいう私がおそらくはじめて人に「死ね」と言ってしまったのは、中学三年生の冬のこと。授業が終わり、その日に一緒に帰ったのはアイちゃんという女の子だった。
当時通っていた女子校で、私はいわゆる「3軍」のオタクだったが、アイちゃんも同じくオタクでアニ●イトに売っているようなキャラクター文房具を愛用し、私たちは週刊漫画やアニメの内容について語らう仲だった。お互いに共通の話題があって、何よりも家からの最寄り駅が近かったのでよく一緒に帰っていたのだ。
いつもアイちゃんはまんまるの顔にメガネをキラリと光らせながら、漫画のキャラクターのマネで私の話にツッコミを入れてくる。その鋭いツッコミの語調がキャラクターそっくりで、思わず私が笑う。
ときには、アイちゃんの彼氏(女子校3軍のオタクの中ではかなり希少)の惚気話をたくさん聞いたりした。環境的に、彼氏というものがあまりにも縁遠く架空に近い存在だったので、わたしは「アイちゃんは幸せそうでいいなぁ」と思っていた。
そんなことをいつも繰り返して帰っていたけれど、その日は少し様子が違った。
アイちゃんはいつもの調子では喋らなかった。いかにも消沈したような顔で、口を一文字に結んで、私の隣をてこてこと歩いている。さすがに気になって、「どうしたの? 何かあった……?」と話しかけるけれど、彼女は答えない。
冬の夕方。白くて透けた息がオレンジの空気にもわもわと溶けていくなかを、わたしはアイちゃんの顔を時折覗き込みながら歩いた。
しばらくすると、アイちゃんが口を開いた。彼女は、「死にたい……」と言った。
突然のことで、私が動揺していると、アイちゃんは続けて「もう、死にたい。誰も私のことなんて必要としていないんだ」
と、今にも泣きそうな顔で言い出したのだ。
人に、ましてや友人に「死にたい」と言われたことのなかった私はどう対処していいのかがわからず、
「どうして? 何かあったの? 必要ないなんてそんなことないよ? 私はアイちゃんが必要だよ?」
と必死に彼女に言うけれど、アイちゃんは事の詳細を語らずにただただ、「死にたい。私なんてもういいんだ」と繰り返すばかり。
彼女があまりにも語りたがらないのと、自分は必要とされてない・死にたいの一点張りをずっと浴びせられ、当時の私はもう本当にどうしたらいいのかわからず、その混乱がだんだん「ていうかアイちゃんには彼氏がいて、しっかり必要とされてるのに、なんで必要とされてないとか言うの」という謎のクレームへと変わっていった。アイちゃんの身に起きたことを何も知らないのに。しかし、目の前で死にたい死にたいと連呼するアイちゃんを前に、次々とあらゆる感情の渦がわいてくる。彼氏もおらず、なんともいえない家族の中で生きている私なんて誰に必要とされているかもよくわかんないのに……だとか、彼氏が必要としてくれるならもうそれでいいじゃん、なにが死にたいだよとか、真っ黒いいろいろなものが私の中で積み重なって、積み重なって。
「じゃあ死ねば? そんなに死にたいなら」
気づくと、アイちゃんにそう言い放っていた。
そのときの彼女の顔は今でもよく覚えている。まるで鳩が鉄砲玉を食らったような顔をしていた。夕日が鳩みたいなアイちゃんの顔を明るく照らしていた。そのオレンジ色の瞳に涙がにじんでいた。私は、やってしまった、と思った。アイちゃんは泣き始めた。まさかそんなことを私から言われるとは思わなかったといったふうに、さめざめと泣き始めた。私は「死にたい死にたい言うから死ねば?って言っただけ!」と主張する自分の中の3歳児をおさえこみ、
「いや、でも、アフリカの子供とかは明日を生きたくても生きられない子もいるわけで」「それなのに死にたい死にたい言うのは良くないなって思うんだよね」とかいうわけのわからない言い訳を連ねながら、彼女をなんとか駅まで連れていった。それからはアイちゃんは泣き止み、徐々にお互いが無言になっていき、その日は別れた。その日から、私とアイちゃんは一緒に帰らなくなった。
私はこの日のことを、今でも昨日のことのように思い出すことができる。冷えた空気を、オレンジ色の夕日を、階段の上から見たミニチュアみたいな街の景色を。どうしたらいい?どうしたらいい?と混乱した頭の中を、豆鉄砲を食らったようなアイちゃんの顔を。何よりも、この日の自分の愚かさを。
私はアイちゃんに起きたことを何も知らなかった。アイちゃんは結局最後まで何が起きたのかを話したがらなかったし、本当のところは今もわからない。けれど、あの日たしかにアイちゃんはこの世界に絶望し、自分を必要とし信じてくれるはずのあらゆるものの声も遮断したくなるほどに傷ついて、死にたかったのだ。私はそんなことも考えずに、彼女の何を知ったわけでもないのに、彼女の問題を勝手に自分事化して自らを哀れみ、そして彼女に「死ね」と、言ったのだ。
「死にたい」は孤独の表明。彼女のそれに対して、わたしは突き放した。その言葉は刃になって、彼女の中の何かをたしかに突き刺して。その時は大丈夫だとしても、どこかで、私の知らない人生のどこかで再び彼女を蝕み、冷たく暗い海の底まで連れていってしまうかもしれない。
あれから10年近くが経過し、たまのときに私は唐突に言い知れぬ孤独感や絶望感に襲われることがある。とくに思い当たるような理由はないけれど、なぜだかいつもはわからない心というものの在処がはっきりと感じられるくらい胸がしめつけられるような感覚がする。まるで世界に自分がひとりだけそっぽを向かれているような、取り残されているような。
そして、そうなるたびに、ぼんやりと、アイちゃんもこんな感じだったのかなぁと思う。家族がいて、友だちがいて、彼らがいくら「あなたは必要です」と言ってくれても、それらがすべて曇って霞んで聞こえてしまうような、そんな閉塞感を。あのときの彼女も、抱えていたのだろうか?
こんなときに、誰かに「死ね」と突き放されたら……あるいは、私の中に眠るかつて誰かから投げつけられた「死ね」が目を覚まして牙を向いたら……。
人に「死ね」と言ってはいけない。担任の先生はどうしてそれがダメなのかを説明まではしてくれなかった。しかし、今になってようやく、その理由がよくわかったような気がした。