ブッダの瞑想法−−10日間の心の手術 2009/09/16〜27[day8]
■9月24日(木)
修業8日目。いよいよ残りの日が少なくなってきた。朝の瞑想を1時間ほどで切り上げ、明るくなってきた外を散歩する。敷地の端の草地は夜露で濡れ、長靴がその水分を集めていく。いよいよ今日は日常生活のなかで生かせる瞑想方法を習えるのだ。そう思うとうれしくなり、体に当たる風を意識したり、虫の音に耳を澄ませたり、心地よい自然に身を任せてみる。
長靴の底が草を踏みしめる感触を確かめながら、目を閉じてみる。サクッ、サクッという草の音がはっきりと聞こえてくる。次に、指で耳をふさいでみた。するとどうだろう。音が聞こえなくなると、さっきまで草を踏んでいた感覚がぐっと少なくなったのだ。濡れた草を踏みながら歩く感覚のほとんどは、サクッという音で実感していることがよくわかる。
6時前に瞑想ホールに戻り、ゴエンカ氏の詠唱を聞いてから朝食。けれども、昨夜の講話では「明日はスケジュールがありません」と言っていたのに、掲示板のスケジュールは昨日と同じままである。変えるのを忘れたのか、途中で何か指示があるのか、疑問のまま次の瞑想時間を待つ。
8時からのグループ瞑想で新しい指導があると思ったら、昨夜の課題の続きが繰り返された。グループ瞑想のあとの時間にも新しい指導はなく、ちょっとがっかりしながら過ごす。4日目のヴィパッサナー指導は15時からだったから、午後になってからかもしれない。
昼食後、先生に質問する。まず、頭と胴体の感覚を感じられないことについて。勉強などで苦手な分野があったら集中レッスンをするけれども、感覚を感じないところを集中的に観察するのではなく、あくまでも頭のてっぺんからつま先まで全体を見るのはどういう意味なのか?
外の景色を眺めると、
林があって大きな空が広がっていて、
自然はすごく大きく感じます。
けれども、太陽系、銀河系、
その外側の宇宙全体から見れば、
目に見えている大自然も
チリにもならないほどの大きさです。
ところがそのチリにも満たない
自然のなかにいる人間の体は、
「完成された宇宙」ということを、
ブッダは発見したのです。
だから、部分だけを見るのではなく、
全体を観察する必要があるのです。
もうひとつ、昨夜からの指導で「ほうきで掃くように流れを見る」と言われたが、それは一度にさっと掃くようにするのか、さっさっと複数回に分けるようにするのか、どっちなのだろうか? それに対して先生は「イメージではなく、流れるときはもう決まってます」と言う。気を流すようにすると感覚を感じやすいが、それは意識のマッサージと同じように感覚を作り出すことなので、ここで言う「流れ」とはまったく違うらしい。よくわからないが、その感覚もいつか体に現れるのだろうか。
13時からの瞑想が始まっても、あいかわらず同じプログラムである。また始まらなかったとがっかりしてしまい、瞑想にも集中できない。途中で抜けてテントでふて寝する。2時半からのグループ瞑想で始まるかと思ったら、また同じことの繰り返しだ。「決意の時間」なので外に出ることはできず、いろいろ空想しながら1時間をやり過ごす。
そして15時半からの瞑想時間になった。ここで始まらないとおかしいと思ったが、また何も変化がなく、普通に瞑想が始まってしまった。どうやらこの様子では、新しい瞑想方法の指導は今日はなさそうだ。
16時ごろにテントへ戻ってふて寝する。もしかしたら、昨夜の講話のMDが間違って流れたのかもしれない。期待してはがっかりという状態を繰り返してきたが、このままでは今日はムダな時間を過ごしてしまう。特別な瞑想方法はきっと10日目にあるのだろう。昨夜の講話は9日目の夜に流れるはずだったのだ。どうにかして気持ちを立て直さなければ、明日もムダな時間を過ごしてしまいそうだ。
テントでうつぶせになって気持ちの切り換え方を考える。しばらく悶々としていたら、ふと「そうだ、自分が悪いのではないか」と気がついた。朝になってスケジュールが変わらなかった時点で確認すればよかったのに、勝手に期待してがっかりしていたのだ。
ただし、「聖なる沈黙」で、気軽にマネージャーに相談する雰囲気がなかったので、話しかけにくかったこともある。17時のティータイムのときにマネージャーに声をかけて、今日は特別な瞑想方法は習わないこと、それは10日目にやることを確認し、次のコースを受ける人が混乱しないように、昨夜の講話の内容をチェックしてもらうようにお願いする。
その後、また敷地の端に行って、ベンチで横になって空を見上げる。今日は一日、勝手に期待してひとりでがっかりしていたけれども、それは自分が悪かった。生きとし生けるものが幸せでありますように。再び、瞑想できるように集中力を与えてください。視界に入る森や空を見つめ、虫の音に耳を澄ませながら、ひとりで反省する。
気持ちを切り換えて、18時からグループ瞑想に入る。これまでのこだわりも消えて、リラックスして瞑想に入ることができた。手足の感覚に集中していると、突然、体の周りを意識が動き始めた。両手と両足で輪を作ったようなイメージで、その輪をぐるぐる感覚が回っている。先生が「流れるときはもう決まってます」と言っていたのは、このことだったのだ。
その後、柔道の指導をするように両手を前後にぐるぐる回す感じがあったり、左右の手でキャッチボールをするような感覚だったり、両手両足を螺旋状に進んだり、腰から頭まで引っぱり上げるような感覚があったりと、なかなかおもしろい。6日目の夜に感じた気持ちよさもそうだが、今回のおもしろい感覚にも、執着してはいけないと言い聞かせる。でも、気持ちいいものは気持ちいいし、おもしろいものはおもしろいと思ってしまうのだが……。
感覚の流れが一段落したあと、頭の後ろ側に虫が止まって、髪の毛の中をもぞもぞ動いている感覚があった。かなりリアルだったので、もしかして本当の虫だったら嫌だと思い、ちょっと頭を動かしてみるが、もぞもぞ感はなくならない。動いてはいけないし、目を開けてもいけないので、どうにもならない。もし手で払ったときにリアルな虫ではなく感覚だったときに、感覚に対して反発の行動にならないのか気になる。けっきょく、そのまま我慢していたら、感覚は消えてしまった。どこかへ飛んでいった様子もないので、やはり感覚だったのだろう。
グループ瞑想が終わり、19時から講話が始まった。昨夜は、サンカーラについて次のように納得していた。気持ちいいと思うことはあっても、執着しなければサンカーラとして蓄積されないのではないか。つまり、心の反応のうち、執着するものがサンカーラとなってしまうのではないか。ところが、今日の講話でその仮説がいきなり崩れ去った。
自分自身の内に起こっていることは、外の世界でも起こっている。インド原産のバニヤンという大きな木の種をまくと、やがて大きな木に育ち、毎年数えきれないほどの実をつける。その実がまた芽を出し、さらにたくさんの実を結ぶ。そうやって、たった一粒の種は、終わりのない増殖を始めていく。
人が無知になってサンカーラという種をまくとき、その種もいつか実を結ぶときがくる。バニヤンの木と同じように、たくさんの実を結び、新しいサンカーラを生むだろう。肥沃な土地に種がまかれれば育つけれども、種が乾燥した土地にまかれれば芽は出ない。心の反応をせずに新しいサンカーラを生まなければ、肥料がない状態になって種が育つことはない。芽を出さない種はやがて消滅するだろう。
同じような技を、近代の冶金学(やきんがく)に見ることができる。ある種の金属を完璧に純化するためには、10億分の1分子の異質物であっても取り除かなければならない。その方法は、純化したい金属を棒状にして、完全に純化された同種の金属で輪を作り、その輪を金属の棒に沿って動かすという。すると、不純物が棒の端に集まって取り除かれるのだ。
同時に、棒を形成する分子のすべてが整列し、曲げやすく、打ちのばしやすくなり、使いやすくなる。これと同じように、ヴィパッサナーの技も、純粋な気づき(意識)の輪を身体の上に動かすことによって、不純物を引き出すという考え方なのだ。
あるとき、ブッダは、
真の幸福、最上の幸福とは何か、と問われました。
そのとき、 こうおっしゃっています。
「まことの幸福、最上の幸福とは、
人生の浮き沈みにあっても、
どのような状況にあっても心が乱れないこと、
静かな心でいられることである」
智慧は感覚を知ることによって育てられる。どんな状況においても感覚に気づいていて平静であるよう訓練するならば、何も恐れることはない。バランスのとれた平静な心で起こす行動は、自分にもほかの人にもよい行為となる。
例えば、ケンカをしている人たちがいるとき、普通なら被害者だけに同情して助けようとするが、ヴィパッサナー瞑想をしている者は、両者に慈しみを向けるいう。加害者が、いかに自分の中に苦しみを持っているか理解しているからである。
あるとき、ゴエンカ氏の師匠が瞑想途中で頻繁に中断する弟子を見つけ、一喝したことがある。瞑想センター中に響き渡るほどの怒声だったそうだが、ゴエンカ氏の横に戻ってきた師匠はにっこり笑って「ゴエンカ、怒ってきてやったぞ」と笑っていたそうだ。何か行動を起こすときに、相手に対して少しの反意もなく、思いやりの気持ちだけがあるならば、強い言葉も、強い行動も、その人の助けとなるだろう。
ブッダは、世の中には4種類のタイプの人々がいると言う。ひとつ目は、闇から闇へ走る人々。二つ目は、明から闇へ走る人々。三つ目は、闇から明へ走る人々。四つ目は、明から明へ走る人々。
闇から闇へ走る人々は、いつも不幸で、苦しみに出会うと自分の怒りや憎しみを増してゆくタイプ。明から闇へ走る人々は、お金も地位もあるのに、「我」を育て続けていずれ苦しみを生むタイプ。闇から明へ走る人々は、現在は不幸かもしれないが、自分の苦しみは自分自身にあると気づき、状況を変えるために努力するタイプ。明から明へ走る人々は、お金も地位も権力もあるけれども、自分の富を自分や家族ためだけに使うのではなく、社会やほかの人のために使うタイプ。
それぞれの人が現在は「闇」であったり「明」であったりするが、それは過去の行為によってもたらされたもので、今の状況を変えることはできない。しかし、ヴィパッサナーによって、感覚に対する鋭い意識(気づき)と平静さを育てることにより、未来を「明」に変えることができるのだ。
講話が終わり、また先生に質問する。夜のグループ瞑想でリアルな虫の感覚があったときにどうすればいいのか聞いてみた。虫だと思ったら、手で払ってもよいそうだ。手で払うことは事実の確認であって、感覚に対する反発ではないので問題ない。もうひとつ、手で払うことでリアルな感覚が消えてしまったらもったいないと思ったが、それは感覚に対して執着しているということに気づいた。手で払って感覚がなくなったら、それはしかたないと思わなければいけないのだ。
もうひとつ、講話の中で「心はサンカーラを栄養にしている」という言葉があった。新しいサンカーラを作らず、過去に蓄積したサンカーラがすべて浄化されたとき、心は何を栄養にするのだろうか? 先生には「それは最終目標の段階なので、私にもわかりません」と言われてしまった。けれども、新しく作ってはいけないものや、浄化しなければいけないものを、心が栄養にしているのは納得できない。
テントに戻り、寝袋に入りながら考える。すべてのサンカーラは生まれ消えていくならば、まず最初に意識するものと意識しないものに分かれるのではないか。意識しないものは、寝ているときの寝返りだったり、日常生活の雑音だったり、いちいち記憶していると脳がパンクしてしまうから忘れるようになっている出来事。
次に、意識するサンカーラのうち、好ましいものと好ましくないものに分かれる。そしてその両者の中で、執着心を持ったものが岩に刻み目を入れたり結び目を作って蓄積されていき、一方、愛と慈しみの心を持ったものは、すぐに消えていく。最終的に、愛と慈しみの心を持ったサンカーラを心は栄養にしていくのではないか。ゴエンカ氏の師匠の一喝も、「あいつはダメだな」と一度思った(嫌悪した)あと、愛と慈しみの心で行動(反発)を起こしていると考えられる。
この仮説でいくと、自分のために立派な家を建てたいという欲望は執着心を持ったサンカーラで、だれかのために瞑想センターを建てたいという希望は、愛と慈しみの心を持ったサンカーラとなる。
今日は夕方までムダな時間を過ごしてしまったが、夜は非常に有意義な時間を得ることができた。修業はいよいよあと2日。「聖なる沈黙」がとかれるのは最終日なので、実際の修業は明日1日だけである。