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能の変遷
こちらは通信制大学へ提出したレポートです。最後には評価も載せてありますので、よろしければお読みください。
このレポートを書くにあたり、ちょうど初心者さん向けの講演を見つけたので、初めての能を鑑賞しに行きました。演目は『土蜘蛛』。演目終了後に解説とシャッタータイムもありました!写真はそのタイミングで撮ったものです。
この『土蜘蛛』ではシテ(=主役)が和紙でできた蜘蛛の糸をわしゃっと何度も投げる演出が見どころで、初心者でも楽しめました。様式化された動作も少し勉強していけば理解できます。
それにしてもあの独特な話し方、室町時代の人々にとっては違和感ないものだったのでしょうか?
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日本の伝統芸能の一つである能は、面をつけた役者による舞と、謡や囃子による伴奏から構成される舞台芸術である。室町時代に完成された形が現代にまで残されているが、その成り立ちや変遷について概観する。
起源は、奈良時代に中国大陸から伝えられた散楽という芸能であるとされる。散楽は曲芸や奇術に寸劇、歌舞などの多種多様な技芸であり、唐から宋時代の一般庶民に愛されたという。奈良朝廷には雅楽寮散楽戸が設置され、散楽の芸人が養成された。
散楽戸は延暦元年に廃止され、平安時代になるとその担い手は庶民に移った。平安の都市文化や日本古来の俳優といった芸能の影響を受けながら、その内容は滑稽な寸劇を中心とするようになり、次第に猿楽と呼ばれるようになっていった。猿楽は寺社とも結び付き、その宗教的な行事の余興として用いられる中で歌舞や演劇の要素を強めた。これは翁(式三番)として現在にも受け継がれている。
一方で猿楽と同時に、田楽という、びんざさら等の楽器を用いた歌舞に散楽由来の曲芸的な要素を盛り込んだ芸能も流行していた。それぞれに座という演劇集団を組織し、互いに刺激し合うライバル関係にあった。鎌倉時代においては田楽の方が人気を集めたが、室町時代になると、大和猿楽の結崎座の名優であった観阿弥によって猿楽は洗練され、大成することになる。当時流行していた曲舞を猿楽へ導入し、それまでになかったリズムの面白さを付加することに成功したのだ。観阿弥は足利義満の目に留まり、支援を受けた。
観阿弥の子である世阿弥は、将軍や貴族たちの好みを反映させ、能をより優美な芸能へと昇華させた。まだ物真似が中心だった猿楽を、どの場面においても美しい謡と舞によって構成されるよう追求した。また、過去の人物が亡霊や精霊となって現在に現れる夢幻能という形式を生み出し、「高砂」などの名作を残している。さらに「風姿花伝」をはじめとする能の理論書を多数書き上げたことも、世阿弥の大きな功績の一つである。その後は甥である音阿弥等が能の発展に貢献した。この三代観世大夫の時代に、優れた能が盛んに作られたのである。
室町幕府の衰微に伴い寺社も力を失って、能は厳しい状況に置かれたが、次第に武家の庇護を得るようになった。桃山時代には、能を愛好した豊臣秀吉が大和四座を保護する制度を設けた。この姿勢は江戸幕府にも引き継がれ、能は幕府の式楽と定められた。能役者は俸禄を授けられ、地位も向上した。
明治維新によって幕府の後ろ盾を失うと多くの能役者が廃業したが、新政府による保護や新興財閥の援助により能は危機的状況を脱した。野外ではなく能舞台を丸ごと室内に収めた能楽堂が建てられるようになったのもこの頃である。その後戦争の混乱もあったが、テレビ放映や野外で行う薪能など新たな試みも功を奏して、能は令和の現在にまで伝わっている。
今後は、能の担い手や愛好者を増やすための新しい取り組みと、他に例を見ないほど古くから伝わるこの芸能の形をそのまま次世代へ受け渡すことの、双方向への広がりが期待される。
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こちらのレポートはB評価(75点)でした。