在日と呼ばれたくない人で悪いですか 4
【自分の持つマジョリティ性について】
3回目まで、「マイノリティ」視点からずらずらと書いたけれど、どっと疲れてしまった。
お前はじゃあ誰のことも差別していないのか、抑圧していないのか、踏みにじっていないのかと、常に背後から、もう一人の自分に問われている気がする。
私も別の側面ではマジョリティである。
たくさん「特権」を持っている。
シスジェンダーであり、自分にあてがわれた制服に何も違和感を持たなかった。
今のところ健康で、「定期的に病院に通わないと生活が困難になる」ことはない。
ストレスを感じることなく階段を自力で登り降りして移動ができる。
多少問題はあったが教育にお金をかけてくれる両親の元で何不自由なく育った。
コロナ禍でも仕事に影響がなく、屋根のある家に住めている。
これ以上にもたくさん、自分では気づいていないくらい、恵まれていることがある。
そしてそれは先人が声を上げてくれたおかげ、という部分が大半であり単なる偶然の集大成であり、私が努力して得たものは何もない。
本当に、何一つない。(改めて驚いてしまった…)
なのに私は数え切れないくらい失敗をしてきた。
今振り返ると自分のマジョリティ性に依って差別的なことをしたり言ったこともたくさんある。ただ私が普通に暮らしているだけで誰かを苦しめたこともあったと思う。(日本に住んでいるだけで、世界の見ず知らずの誰かを搾取している可能性もあるわけで)
きっと今も。
自らの過ちについては、過去に帰って謝ることはできないわけで、その時に傷つけてしまったその人の心の傷を私が癒すことは不可能だ。私は自分のそれらの行動を許していない。その部分は無知だったから仕方ないとか自分もマイノリティだからとか追いつめられてたとか、そんなことは何の免罪符にもしない。ただ、同じ過ちはしないでおこう、と思う。
特権性と当事者性をさまざまに何層にも束ねたのが社会的な存在なのだとしたら。
それらを一度整理して、「自分が気づいていない」かもしれない「特権性」について、より長い時間考える習慣を持つことが大切かも。
また、「当事者性」については、できる範囲で、第三者に向けて話していくことも必要だと思う。(人によってフラッシュバックなど、辛いことが多いと思うけれど…)
どちらもしんどい。
向き合うことも、声を上げるのも。骨が折れる。なるべく避けたい。
それでも。
そしてそれらの行為はきっとそれぞれを打ち消すのではなく「補完しあう」ものになり得る。
だから私も(前回書いたことと矛盾するが)自分が受けた抑圧について「気づかないふり」は、なるべくやめようと思う。じゃないと、人にもそれを無意識に課してしまう日がくるから。(私だって我慢してるんだ、という例のやつ)
他に何ができるのか、まだまだ方法を知らないし実行する力が自分には足りていないと感じるけれど、希望を捨てずにそういう行動を積み重ねていきたい。
なかなかまとまらないけど5に続く…