ゆたかさってなんだろう
「自分は豊かだ」と思っている人はどのくらいいるのだろう。豊かな暮らしがしたい。豊かな心を持ちたい。日々、ため息まじりの失望と他人を羨やむ日常生活を送っているのは、私だけなのだろうか。絶対に無いよりあったほうがいい、お金も物も、安心感も。きっと、命尽きるその日まで願い続ける、豊かな人生をと。
ふと、私が願いが叶ったと喜ぶ時、傍にあるものはなんだろうかと考えてみた。目に見えるものだろうか。カタチがあるものだろうか。カタチある豊かさは、屋根のある寝泊りする場所があること、裸でいることなく身に纏う布があること、お腹が空いた時に食べるものがあること、そんなところだろうか。華やかな世界を望まない私は、見た目より機能性を重視した物が欲しい。目に見えない豊かさにおいては、集中して好きなことをやり続ける環境と時間があること、孤独につぶれそうな時に誰が側にいてくれること、何よりも健康であること。
そもそも「豊か」であると感じるのは誰か。自分自身。もちろん家族や、側にいてくれる人がそれぞれに、「自分は豊かだ」と感じてもらえたら私自身の喜びにもなる。しかし、個々違う物差し、感性を持っているのが人の姿だ。他人にはわからない豊かさもあるはずだ。自分が「豊かさ」を感じられたら、それでいい。人の心にある欲望は成長の種のひとつ。しかし、あるにも関わらず、もっと、もっとと追い続けたら疲れて心も荒ぶ。
まずは今、自分が何を持っているか、その棚卸しをすることから「豊か」さの在庫を、知ることができるのではないか。使えるもの、無駄なもの、財産を寄り分けてみる。目に見える物質的な物から、性格や行動履歴といったカタチがないものもある。あることに疑問を持たないでいるものほど、無くなれば困ることになるだろう。「自分」が分かると案外思っていたより「豊か」なことに気づくだろう。まずは自分自身のこと、環境に目を反らさずにみることがポイントの1つだと思う。
そして、自分が「豊か」であることを知った時、それらを、財産として増やすには、その「財産」を人のために使うことなのだと思う。そうしたら、豊かな自分は、もっと豊かに、自分の大切な人も豊かにすることができるのではないだろうか。次のポイントは、「人のために行動する。」恐らく、自分ひとりが豊かであっても、心は満たされないに違いない。
極楽浄土へ行ってから豊かになったのでは遅い。命ある今、豊かになりたいという願いを叶え、その財産をまわりの人と分け合い、共に豊かな人生を生き抜こうと思う。