2025年2月2日(日)スポーツウォッシング②

朝の8時半に小2の末娘を起こす。何やら新しいプリキュアが始まるとか。少し付き合ったがやはり耐えかねて洗濯を回したり子供らの学校用の上靴を洗ったりと別のことに取りかかってしまう。今年のプリキュアのテーマは「アイドル」のようです。その後に西村章氏の『スポーツウォッシング』を読み進める。第三章ではスポーツウォッシングの構造として特にイベント(競技会など)の際の主催者・競技者・メディア・ファンの4者の関係性を挙げてそのメカニズムを解説している。が、「それらの〈洗濯行為〉を見抜くのが難しいからこそ、あるいは、洗濯行為であることをなんとなく感じながらもスポーツの魅力にどうしても引き寄せられてしまうからこそ、現代のスポーツウォッシングは厄介なのだ」と著者は指摘している。この章以降は平尾剛二宮清純本間龍山本敦久山口香といった専門家・識者に話を聞いているがこれも面白い。日本のアスリートは社会的発言をしないことが善なのですね。日本のメディアはスポーツウォッシングを報じるのが難しい環境下に陥っているのですね。山本敦久氏の発言が印象的ですね。「日本のスポーツの社会的位置は、エンタテイメントと学校的世界に幽閉されています。…(中略)…私が〈ソーシャルなアスリート〉という言葉を使ったのは、日本のスポーツ界には「社会」がないからなんです。エンタテイメント的な資本主義か学校的空間か、あるいは家族の物語しかない。…(中略)…学校の中で活躍すればいい。経済活動の中で企業と一緒になって頑張ればいい、あるいは家族の感動の物語の延長線上にあるナショナリズムの中にあればいい。そういう存在でいいんだ、とアスリートたちは甘やかされてきたんです」と。アスリートだけが悪いわけではないですが確かに今の日本のスポーツ環境を表した言葉ですよね。

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