Back to the late 90’s【番外編】第12話 大阪における当時のHIPHOPとREGGAEの関係④HIPHOP vs REGGAEの終焉
これまで3回に渡り、90年代後半から2000年にかけて存在したHIPHOPとREGGAEの関係について私なりに論じてきたが、今回は大阪のシーンで大体いつぐらいから「水と油」の関係が変化していったのか?考案してみたいと思う。
結論から言えば「◯◯があり、そこから両者の対立は無くなった」と、◯◯の部分は断言はできないだろう。だがしかし、可能性として考えられる要因は存在するので、それを踏まえながらシーンにおける変化を見ていき、私なりに検証してみたいと思う。
1999年にMIGHTY CROWNが、ワールドクラッシュで優勝し、翌2000年には彼らがプロデュースしてきた『横浜レゲエ祭』が横浜ベイホールに場所を移して規模がバージョンアップしたが、関西のREGGAEシーンにおいて、MIGHTY CROWNの一連の功績に影響受けて、それと連動する形でシーンが盛り上がったかと言えば、私の所感ではあまり無かったと思う。が、これはあくまでHIPHOP業界側の一兵卒である私の所感であり、当時もっと上の立場で活動していたHIPHOP業界のアーティストや関係者、はたまたバリバリ関西のREGGAEシーンで活動していたアーティストや関係者であれば、異なった意見があるかも知れない。
私が思うに関西REGGAEシーンが復活の狼煙を上げたと言えるのが、2001年にリリースされ大ヒットした奈良県出身の三木道三『Lifetime Respect』だ。なんとこの曲は、オリコン首位と言う歴史的快挙を成し遂げた。この曲が関西のみならず全国のREGGAEシーンにもたらせた功績は凄まじく、燻っていたREGGAE熱が再び爆発したように思えた。そして再三となる「レゲエ・ブーム」がやってきた。
この「レゲエ・ブーム」で再び勢いを取り戻した関西のREGGAEシーンでも様々なダンスが開催されていく。そして、翌2002年にリリースされたジャマイカ人REGGAEアーティストSEAN PAUL『Get Busy』はREGGAEシーンを飛び越え、ビルボードNo.1と言う快挙を成し遂げる。このSEAN PAUL『Get Busy』の大ヒットは、90年代に数多くリリースされたRAGGA-HIPHOPと異なり、『Diwali』と呼ばれた生粋のDANCEHALL RIDDIMのままアメリカで受け入れられた。それはまさに歴史的快挙と呼ぶに相応しい出来事だった。DANCEHALL RIDDIMがついに全米を揺るがしたのだ。
これによりBOB MARLEYやYELLOWMAN、SHABBA RANKSですら成し得なかった全米NO.1をSEAN PAULがDANCEHALL RIDDIMで達成した事で、REGGAEのDANCEHALL RIDDIMがポップス音楽の一部として認められたのだ。
以上のような背景があった事を踏まえた上で、やっと本題となる『大阪におけるHIPHOP vs REGGAEの終焉』についてであるが、これは世界的な時代の変化とともにHIPHOPのDJやリスナーがREGGAEに対して、はたまたREGGAEのセレクターやリスナーがHIPHOPに対して、これまで頑なに拒んでいた壁が自然と崩壊してきたのではないだろうか?
ただこれは私の所感であるが、SEAN PAUL(=REGGAE)をアメリカ(=HIPHOP)が受け入れたように、大阪でもREGGAEをHIPHOP側が受け入れた事で、壁が崩壊してきたのじゃないかと考える。私の印象ではHIPHOPの考えにある「良いと思うものは、ジャンルを問わずサンプリングする、受け入れる」と言う精神に基づいて、HIPHOP側がREGGAEを受けれたのが、先ではなかったのかと思う。
なぜならば、ここで私が体験したある興味深い出来事があるからだ。
2002年の秋~冬頃だったろうか?私が訪れた某レコード店で、そこの店長とスタッフがレジ横で会話している声が聞こえてきた。どうやら店長が少し怒った口調で、スタッフに向けて話している。最初聞くつもりもなかったのだが、やがて店長が少しずつエキサイトしてきたので、レコードを見ながら、聞き耳を立てているとー
「なあ、最近『The Perfect Vision』て曲出したMINMIておるやろ?あいつなんやねん!元々はREGGAEやってたかなんか知らんけど、ここ何年かはHIPHOPシーンで活動してきたくせにREGGAEに鞍替えしてきやがって!それでREGGAEのDIVAとかほざいてくれてるらしいやんけ!ふざけんなよ!PUSHIMの発言ならわかるが、MINMIはHIPHOPやろが!今REGGAEが勢いあるからってHIPHOPのくせにノコノコとREGGAEにくるな!」と言い放っているではないか!
90年代終わり頃ならまだしも、2002年の4分の3を過ぎた頃である。21世紀に入りSEAN PAULがHIPHOPシーンで受け入れるようになっていくなかで、仮りにもREGGAEを代表するレコード店の店長が、未だ上記のような発言をしているのは、如何にREGGAE側が頑なにHIPHOPを受け入れようとしていないかの、ひとつの尺度になるのではないだろうか?確か当時でこの店長は30歳代半ばぐらいだったと思う。別にこの店長が「だめだ」とか「間違っている」とかは思わないが、REGGAEを長く聴いている人であればある程、このような頑なに拒む人が2003年を迎えようとしている直前でも、未だ多かったように思う。
以上4回にわけて『大阪における当時のHIPHOPとREGGAEの関係』を私なりに検証してみた。私が執筆した事が、全て正しいとは思わない。あくまで大阪のHIPHOPシーンで、当時スポットライトに当たる事も殆どなく地味に活動してきた一兵卒DJの証言録だ。
つづく......