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Back to the late 90’s 第34話 CLUB ItoI『Freakin' Time』⑥

2001年3月末で『Freakin' Time』を抜ける事になった。理由は3月末で大学を卒業し、4月からサラリーマンとして働く事が決まっていたので、このまま平日木曜日にDJを継続して行く事が難しいと判断したからだ。


自分にとって未知となるサラリーマンをどこまでやっていけるのか?希望よりも不安ばかりが正直つのり、小心者の私は両立する自信がなかった。時代背景として1999年以降に大学卒業した世代は、ひどい就職氷河期で、かく言う私も100社余りアクセスし、50社ぐらいは選考に進んだものの、内定は2社のみで、うち1社に就職したが、所謂「ブラック企業」に該当する内容だった。因みにもう1社も「ブラック企業」だった。


話が『Freakin' Time』から逸れてしまったが、当時「フリーターしながら音楽活動しよう」と言う私の考えは、両親から大反対されてしまった。


特に父親からは「大学を卒業したら就職するのが当たり前だろう!何を甘ったれた考えをしてるんだ!お前は!」と一喝されてしまった。元々DJ活動には、良い顔をしてくれなかった両親で、長年公務員で役所勤めをしてきた頭がメチャクチャ固い父親は、特に私がDJ活動をしている事に対して、いつも否定的だった。


私自身、大阪のHIPHOPシーンでの地位も上がらずのまま、正直DJだけのギャランティでは生活出来ず、人気実力もLOW DAMAGEやMINAMI君、BENKAY君(当時はBENKEIと表記)などのトップDJに遥か及ばず、それどころか自分より年下の下拓やGEORGEも着実に実力をつけてきて、もはや私を超そうとしており、このまま活動を続けていても、頭打ちは目に見えていた。


正直DJを休止する事に対し、悔いは残ったが「仕方ない、またサラリーマンが落ち着いたらDJ活動も再開させよう」と心に誓った。

『Freakin' Time』で一緒にレギュラー出演していたかけがえのない仲間達。写真右側から今も地元小倉でDJ活動をしている先輩TOSHIBO君、事業家として成功したNAN-JYO、私、長居で2店舗ラーメン店を経営しているDJ BEATBANG、M.M.Tとしても活躍したCHAN-U、一番左は顔が隠れて誰だろう!?


『Freakin' Time』を抜ける最終日のDJについての記憶は、残念ながら覚えていない。たが私の事なので、立つ鳥跡を濁す事なく、しっかり挨拶をしてピリオドを打ったのだと思う。

CLUB ItoIのDJブース内。右側にREGGAEの7inchがケースに入れられて段積みされている。スピーカーからの重低音で心臓はバクバク!


CLUB ItoIが、かつて存在した場所は、残念ながら今は全くと言っていいぐらいに、面影が残っていない。しかし、その前を通ると、『Freakin' Time』のDJ陣や、店長のIKKYUさん、スタッフのレスラー君、徳田さん、戸田さん、みなみさん、アイコさん、なっちゃんの顔が今でも走馬灯のように浮かんでくる。

なっちゃん。
バーカンでよくお酒を作ってくれていた小柄でとても可愛らしい女の子。確か私と地元が近く(隣の市だったかな?)年齢も少し年下だった記憶がある。
レスラー君。
CLUB ItoIで、当時確かブッキングなどを担当し、店側と出演者との間を取り持ってくれた。またご自身も、時よりR&Bを中心にDJをされていた記憶がある。私が『Freakin' Time』を抜けてからも、たまにCLUB ItoIに遊びに行くと、快く対応して下さった。

つづく......

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